2017年4月24日 (月)

ソーセージを章魚(たこ)の形に…

さがしもの、というか、どこかで読んだ歌とか文章のフレーズを

どこだったかな、と探しまわることがよくある。



右側のページに載っていたとか、二段組みの下の方だったとか…

そんな記憶の断片がちらちらして、その探している言葉が見つからないと

次に移れない性分である。

このたびは、タイトルにある歌で、

ソーセージを蛸の形にしようとしたのだが、それを喜んでくれる(?)息子は

もうこの家にいない、というような短歌だった。

この歌がなぜ目にとまり、気にかかったのかといえば、わたしもまた似た

ような歌を作ろうとしたからでもある。(結果、作らなかったけど…)


そうして、一昼夜(勿論、睡眠はとったけど。)、探しまわった挙句、ようやく

あったわ。

      ソーセージを章魚(たこ)の形にせむとして踏みとどまりつ

      息子はゐない          宮本 永子 (「朔日」2017・4)


結句の「息子はゐない」に母親の心情がせつないほど伝わってくる。

息子が居た時は弁当作りに勤しんでいたのか?

ソーセージは定番とはいえ、お弁当には欠かせないよね。





ということで、一件落着で、気晴らしに園芸店に行って来た。

ブルーベリーの鉢植えがあり、白い可愛らしい花を付けていた。

買いたかったけど、かろうじて「踏みとどま」ったわ。

枯らしてしまいそうな予感がしたから……





2017年4月21日 (金)

『木俣修のうた百首鑑賞』 外塚 喬  現代短歌社選書

木俣修の薫陶を受けた一人として、著者なりの木俣修像を描き出す

ことができたら……と、「あとがき」に記す。

人口に膾炙した作品ではなく、著者自らがこころ惹かれた作品を選んで

鑑賞している。

木俣修が亡くなったのは、1983(昭和58)年、4月4日だった。

すでにあれから30数年の歳月が過ぎている。

著者が編集発行する歌誌「朔日」に、2014(平成26)年5月号より連載を

はじめ26回で完結した「木俣修のうた百首鑑賞」である。






木俣修といえば、『昭和短歌史』の人という、印象が強い。

その緻密な短歌史のお世話になった人も多いことだろう。

作品よりも論客としての印象が強いのも前記『昭和短歌史』の著書の

所以でもあろう。






この百首鑑賞本は、とても丁寧であり、100首鑑賞とはいえ、引用されて

いる歌は260首程に及ぶ。この1冊を読めば、木俣修の全体像が理解できる

書となっている。






100首の歌を巻頭に並べ、集中に引用された260首程の歌は巻末に一覧

出来る。そして、年譜も付いているのは研究者にとってもありがたいのでは。

    来むとしは一つまとめたき仕事ありそれ以外には思ひ及ばず

                             『昏々明々以後』

     掲出歌は、最後に残された九首のうちの一首である。修は、四月

    四日、慶應義塾大学病院において腎不全のために七十六歳の

    生涯を閉じている。亡くなってから家族が紙片に書き残していた歌を

    発見している。ーー略


著者の外塚自身は「一つまとめたき仕事」を成して、こころ安らかにいる

ことであろう。

木俣修の歌といえば、わたしは5月になると以下の歌が思い出される。






    リラの花卓(つくゑ)のうへに匂ふさへ五月(さつき)はかなし

    汝(なれ)に会はずして








                     2017年4月21日発行 2000円+税


    

 

2017年4月19日 (水)

ハナミヅキ&藤の花

久留米まで往還。

久留米の街は、真っ赤な久留米躑躅が花盛りだった。

本日も良い日和なり。




沿線の藤の花をたのしみ、咲きはじめたハナミヅキの花を仰ぐ。

ハナミヅキは好きな花の一つで、いずれの歌集にも収めているような

気もしないではないが、とりあえず、1997年刊行の歌集から。





     那珂川(なかがは)のむかうが博多はなみづき咲く西中洲水上公園

     ひるがへり咲く花水木いつさいのことは忘れてかうべをあげよ

     夕風にふるふるそよぐはなみづき眼裏(まなうら)にあり眠らむとして

                     『ひかり凪』(ながらみ書房刊) miyoko


福岡は、那珂川を挟んで博多区と福岡にわかれる。

JRには、福岡駅はなく、「博多駅」である。

福岡駅があるのは、西鉄電車の「福岡駅」で、天神が始発になる。

1首目の歌は、当時は水上公園に花水木があったのだが、数年前に行ったら

なくなっていた。







あ、そうそう、久留米市内の池町川の両岸の八重桜が見頃だった。

濃いピンクのさとざくら(関山)で、花びらが風に舞い、池町川に散ってゆく。

この川は街川なのだが水が澄んでいて、流れが透明である。

桜の樹下には、ところどころにベンチが置かれている。

散策をするのに打ってつけの場所である。

この八重桜は何本くらいあるのだろうか。八重桜の並木道だ。








cat      cat

本日、特定健診結果報告書を受け取った。

「生活習慣の改善を心掛けて下さい」と2項目について記されていた。

やっぱりねぇ~と、慄いている。



「生活習慣の改善……」って、そもそも、わたしに「生活習慣」って、

あったの?

この「生活習慣」は、ワルイ「生活習慣」なのね。

                             〈改善〉できるのだろうか?

2017年4月18日 (火)

温泉へ

福岡を出て、高速道路を筑紫野から浮羽を通り、日田・玖珠を経て

別府まで行った。

新緑の山々を仰ぐと、点々と咲いているのはたぶん山桜?

そして、高速道路の沿道には八重桜の花が、なんともなまめかしく咲いている。

木々の若葉の色が、陽に映えて美しい。






お昼は「山水舘」へ。グレードアップした食事ということで堪能した。

昼食ののち、温泉へ。

時間が充分あるので「いでゆ坂」を散策。

地獄蒸し工房鉄輪に寄ったら1時間待ちとやらだった。

レジ横に売られていた「温泉たまご」2個入りを買う。

半熟でとっても美味しかった。





湯けむり通りを通ってホテルへ。

本日のお土産は、いも焼酎・黒麺仕込みの「のみちょれ」。

「のみちょれ」とは、大分弁で「ぐいっち飲み干しちょくれ」らしいのだが…






          あらたふと青葉若葉の日の光      芭蕉





『奥の細道をゆく』(KTC中央出版 2001年6月刊)で、ねじめ正一が旅人と

して、日光を訪れている。この句を以下のように鑑賞している。





          いい句ですよね。なんていうんだろうな。尊いことよ、という、

          その「日光」という言葉から連想する日の光が青葉若葉を

          照らし輝いている、あーもったいないもったいない、そんな

          感じですよね。--略




2017年4月16日 (日)

『万葉歌の世界』 久恒啓一監修 久恒啓子著 地研

「女流歌人が詠み解く ! 」の副題の付いた書で、タイトルの横に

「今に詠い継がれる最古の歌集」と添えられている。




副題の「詠み解く」は、「読み解く」では、ないだろうかと思いつつページを

捲る。著者は、『万葉集の庶民の歌』も以前出されている万葉集をライフ

ワークとして、研究している大分在住の「波濤」同人である。



本書の構成は以下のようになっている。


              〇遣新羅使人の歌

              〇中臣宅守と狭野茅上娘子との贈答歌

              〇山上憶良の歌

              〇防人の歌

              〇東歌

              〇作者未詳の歌






著者は参考にする学術書、研究書など買い集める傍ら、万葉歌の詠まれた

現地に実際足を運び調査している。現地に立つことによって気候や風土や

地理的条件を知り、彼らの悲しみや苦悩を想像している。






336ページのぎっしり字の詰まった(笑)書なので、まだ読みはじめたばかり

なのだが、とりあえず「山上憶良の歌」の章を読んでいるところ。





それで一つ気になったのは、巻末に「参考文献」は掲載しているのだが、

集中の引用文献の書名などが書かれていないことである。たとえば、

「梅花の宴」の章で、大庭みな子氏の言葉を3行に渡って引用している。

しかし、大庭みな子氏の書名も出版社もここには書かれていない。

(たぶん、大庭みな子氏の万葉関係の書だと思うが……)

これでは、どこからの引用かが読者には不明である。巻末の参考文献にも

掲載されていないのは、なぜなのだろう。


評論や評伝などで引用する場合は、出典を明らかにするのが大事だろう。

この書は、労作ゆえにそのことが惜しまれてならない。

そんなことを思いながら読み進めている。






                        2200円+税  2017年3月13日

    

 

2017年4月15日 (土)

映画 「LA LA LAND (ラ・ラ・ランド)」

アカデミー賞史上最多6部門受賞と誉れが高い映画に行ってきましたよ。

いやぁ、ミュージカルなんて田舎モンのわたしにはムリって思って

いたけど、なんのなんの感動しました。



セバスチャンを演ずるライアン・ゴズリングの表情がいい。

彼が哀愁たっぷりピアノを弾く姿に胸がせつなくなりました。




女優を目指すミア(エマ・ストーン)と売れないジャズピアニストのセバスチャン。

夢を叶えようと努力し忍耐するのだけど、夢を叶えるためにたいせつなものを

失うんだよね。





ひるがえって、歌人で名を成しているひとって、何かを失っているのだろうか?

あ~ぁ、こんなこと考えるから、あんたはダメなんだよ。

                               ハイ、失礼いたしました。

cat         cat

只今、19時に福岡市に竜巻情報が発表されました。

20時まで要注意みたいです。

ゴロゴロとカミナリが鳴っとります。

2017年4月14日 (金)

『景徳鎮』 大辻隆弘歌集 砂子屋書房

2011年から4年間の作品、350余首を収める著者第8歌集。

『景徳鎮』とは、中国の青磁器産地の名前で、青ざめた白い肌地に

心惹かれたと「後記」に記す。







    何なすとなき冬の日を青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ河口まで来つ

    道のうへを風痺(ふうひ)のひとり歩みをり慎みてそのかたはらを過ぐ

    ハルシオンやめてデパスを選みたるそのいきさつを嬉々として言ふ

    小心と保身を彼に遺伝しておもへば一生(ひとよ)なかばも過ぎぬ

    この歌が載るときにもう父はゐないさう思ひつつ歌を直しゐつ

    平かになりにし父の胸に射すきのふ雨水(うすい)を過ぎたる陽ざし

    聴覚は終(つひ)に残ると言ひしかどそを確かめむ術(すべ)はもう無い

    ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき

    踊り場の壁に掛けたる絵が揺れてどこから風が来るか知らない

    葡萄酒に浸しし麺麭を肉と呼ぶかかる思想をわれは好まず






①首目の歌は、歌集巻頭の歌。「青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ」の

把握、この巻頭の歌は、著者の歌のありようを確と示している。抒情が

清明である。



②首目の歌は、恥ずかしながら「風痺(ふうひ)」がなんのことか一読、

 わからなかった。字を眺めているうちに、ひょっとして痛風?と思い

 あたった。

 (こういう難しい言葉を難なく遣う人には、高野公彦さん?がいる。)

③首目は、「嬉々として言ふ」のは、誰かということはこの歌では説明して

  いない。そこを誰と確定していないのがいいと思う。そういえば『歌壇』の

  5月号で 「4Wを伝えるのは短歌の目的ではないということ…」と、書き

 「 『読み』を信頼する」態度を説いていたのは、大辻さんだった。

④の歌は、土屋文明の「意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに

 拾ひあへるかも」が思い出された。




⑤首目の歌は、2013年3月に亡くなられた父君の、生前にその死を想定して

 詠まれたものだろう。その悲しみが美しい。



⑥首目の歌は、いちばん好きな?歌。「雨水(うすい)を過ぎたる」が効を奏し

 ているような。

⑦首目の歌は、確かめる術はないのだけど、とにかく最期まで耳元で声を

 掛けなさい、ということを看護師から言われたことを思い出した。母の臨終

 に、わたしたちは「おかあさん、がんばったねぇ」とねぎらい、「ありがとう、

 ありがとう」と告げたものだ。(わたくしごとながら…)



⑨首目、こういったなにげない歌もいいなぁ、と思う。




⑩首目は、歌集掉尾の歌。礼拝の場面でインティンクション?だろうか。

 「かかる思想」をわたしはよく理解していないのだが、結句の「われは

 好まず」の断定が気持ちいい。






歌集題もさることながら、満を持して出された歌集のような、力を感じる。

きっと好評を得るだろう。






                  2800円+税      2017年3月20日発行

 
  

2017年4月13日 (木)

『文脈力こそが知性である』齋藤孝 角川新書

書店で平積みされているのが目にとまった。

短歌をしていて、〈文脈〉というのをこのところよく考える。

而して、何か参考になるんじゃないかしらと購入。

ハウツー本といっていいのか、どうか。

齋藤孝の『語彙力こそが教養である』はベストセラーになったらしいが、

そちらは残念ながら読んでいない。







        ①知的であるということは、柔軟であること…

        ②知識の土台、感覚の共有がないと話が通じない…

        ③「違いを知る」ことが相手への理解のきっかけになります。

        ④言葉がもたらす影響について、客観性をもつこと、想像力を

         働かせることがとても大事…






まだまだあるけど…書けばきりがない。

ポイントがゴチックで表記されているので、読み易い。集中しやすいというか、

文章が平易で理解しやすいのが、うれしい。


        その場の状況を感知することができない、相手の感情に対する

        配慮もできない、ただ自分の主観的な視点だけで動いてしまう

        というのは、「子どもっぽい」ことです。







おお、なんと耳が痛いことか、

いや、読んでいるから、目か。

飛蚊症みたいに目の前に黒~い糸状のものがチラチラする…

状況を感知する力、なかなかムツカシイ。







                 840円+税  2017年2月10日 初版発行

 

2017年4月12日 (水)

『新潮』2017年4月号 角田光代「深い森」私的感想文

梯久美子の『狂うひと』の書評。

書評といえど、4ページもの長い論評ともいえる。

さすが~というか、まいったまいったと思いながら図書館で読了。

        書かなければ現実ではない、

        ということを裏返せば、書けば現実となる、

        書けば存在する、ということになる。







敏雄とミホの二人の動静をかように論破するあたり、ホントにわが角田さま

である。そして、敏雄とミホの「書くことについて」は以下のように考察して

いる。


       人生を棒に振ることも厭わず、

       他人を思いどおりにするまで、

       運命を変えるまで、

       二人にしかわからないことを続ける。

       つねに言葉を介在させて。






そして、梯の『狂うひと』については、





      私がもっとも胸打たれ、感動するのは、本書が何をも脅かさず、

      何をも損っていないことだ。


これって、評伝を書くときの〈心構え〉みたいにも思えてくる。

読めてよかった、よかったよ。



cat      cat

第40回俳人協会新人賞を受賞した『山羊の角』の鎌田俊氏。

『俳句』4月号に掲載されていた。その中で注目したのは、角川春樹氏の

「自己の投影」という言葉。それを句作する上で鎌田氏は頭に置いているの

だろうか。

昭和54年生まれといえば、今年38歳。「河」所属。

「自分の心の年譜につながる句が出来のよしあしに拘らず愛着があった」

という角川源義氏の言葉もひいてある。




短歌の新人賞受賞の人たちとの違いを(方法論的に?)痛感した。

2017年4月11日 (火)

「泥舟」に乗って…

靄のかかった岸辺に一艘の泥舟が見える。

行き過ぎようとしたら舟のなかから声がする。





      「乗って行きなさい ! 」

      「わたし、これから、図書館へ行くので、ごめんなさい。」


      「浮き世は夢、ゆめを見られますよ。」


      「そういえば、このところ夢を見てないわ。」






と、いう流れになって、戯れにその「泥舟」に乗ることにした。

ところが、その「泥舟」には「湯舟」まで用意されていたのだ。






      

      呼びかえす泥のほとりのちちははの家にひと間を借りて暮らした

      八月の墓にやかんで持って行く水ゆれているのが手にわかる

      知らない海の話をすこし飽きるまで明日あなたの扶養をぬける

      手帳を決めて連絡先を書きうつすこれは訃報のゆく宛て先だ

                                    「夏のはたて」



      山茶花のほころぶ冬の庭にいて離れなければふるさとはない

      うちをでる? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ

      洗濯機に絡まっているこれはシャツこれはふられた夏に着ていた

      恋人でも家族でもない半裸だなルーム・シェアは長い合宿

      湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない

      雨が降りだしたみたいに郵便は届きふたつの宛て名を分ける

                                     「長い合宿」

山階 基 (やましな・もとい)の「湯舟泥舟(ゆぶね・どろふね)」のネット

リントより。








わたしは、夢を見ることができた。

はかない昼のゆめかもしれない。

しかし、山階 基の夢は確実に育ち、稔りを迎えるだろう。

いまは、その、山階 基の才能が、

                   あたら潰えぬことを、祈念するのみである。







cat             cat

「花散らしの雨」があがって、星がたくさん見える。

そういえば、「花散らしの雨」の言葉をはじめて知ったのは、

道浦母都子歌集の『花やすらい』(角川短歌叢書 平成20年9月)だった。

       花散らしの雨は夜来の雨となり軽パラソルの縞柄濡らす





今夜はその雨もあがり、大きな大きな月が、のぼりつつある。

そうか、今夜は満月なのだ。



ちょっと空を仰いでご覧。月が綺麗ですよ。




      

«第55回 北九州芸術祭 短歌大会