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2015年7月

2015年7月31日 (金)

又吉直樹、加計呂麻島へ   BSジャパンテレビ

又吉直樹が母親の故郷、加計呂麻島への旅。

18歳の時に母親と訪れ、それ以来の15年振りとか。

加計呂麻島へ行くには、バスで古仁屋まで行き、フェリーに乗船。約25分で瀬相に着く。

コンビニもスーパーもない、33集落に1400人が住む島である。

半農半漁の生活をしている人々が大半だと思うが、島人たちの幸福度は高い?。

又吉が旅の折々に大阪に住む母親に出すハガキにその答えが…



       好きなことで苦しむ人
       生きることの生活をたのしむ人





前者が又吉自身であり、後者が加計呂麻島のひとたちである。
それにしても島での又吉の顔が実にいい。
その語り口もゆったりと、ひとことひとこと噛みしめるように、
自らに言い聞かすように語る。



そして、島唄との出会い。
抑圧の中で生まれた島唄は、明るい唄もあるにはあるが、総じて暗い。
だが、その暗さの中には、その島唄を聴くことによって心がほぐれ癒される。
島唄の「シマ」は、集落(シマ)のシマである。





母をそだてた「勢里(せり)」には、6世帯、11人が住む、小さな集落。
そこで、母の若かりし頃のことを耳にし、母が通った小中学校にも行く。


      勢里の夕日は誰にも平等に
      今日も照らしています




赤いポストに投函する母親宛てのハガキ。

海の色、夕焼けの色、なにもかもすてきな番組だった。

加計呂麻島は「かげろうの島」とも呼ばれるそうな……



                 2014年3月に放映された再放送。




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ところで、今夜はこの月2度目の満月なのだけど、あいにく
福岡上空は雲がかかっていて、見えない。
もう少し待とうかしら…

2015年7月30日 (木)

歌集『いきつもどりつ』 日野きく  現代短歌社

『蓮燈』につづく2007年から2015年1月までの作品をおさめた第8歌集。

積み重ねた歳月。あと戻りはせずに、今を生き、さまざまな別れを、日常を詠う。

「7年の間よき同伴者であった飼い猫」を詠んだ歌にことに惹かれた。


      ありのままそのまま生きるが願いとぞつつまずありし憶良慕わし

      逝く前の母の踵のやわらかさ春の雪降る夜のあたたかし

      気まぐれに膝に飛び乗るにんげんのわたしとこれから生きようお前

      麻布十番洋館二階に乾杯すわが身の老いのともかくとして

      三線(さんしん)に合わせ歌えば窓の外うりずんの海青く広がる

      機嫌よく生きていますか海の上いつしか湧ける白雲が問う

      雪の傘払いて入る玄関のうちより「おかえり」の声ありし日よ 

      かぼちゃには似合わぬ名前雪化粧硬く丸きをどこから切ろうか

      避難所の食費今日より有料と小さき記事の心に残る

      パソコンに向かう背後に鈴の音首につけるが近づくらしく





『いきつもどりつ』の日常、ささやかな歓び。そして、かなしみが平易なことばで
うたわれている。



3首目、10首目は猫の歌だが、「猫」ということばはない。ないのだが、猫とわかる。
日野さんは、佐野洋子も好きだということが分かる。佐野洋子の猫をうたった歌、



     
      誇らかに絵本コーナー中央に立つ一匹は佐野洋子のねこ

      太ぶとと長き尾を立てこのせりふ「おれはねこだぜ」「大将なんだぜ」




そして、2首目・7首目の歌。
2首目の踵のやわらかさが、せつない。踵に触れ、さすってあげないとその
やわらかさには気がつかないだろう。


7首目の「おかえり」と言ってくれたのは生前のお母さんだろう。
亡くなったのち思い出すのは声であるのがかなしい。もう、その声には2度と
聞くことはできないのだ。


9首目の歌は、避難しているひとたちに心が寄り添っている。
その小さい記事に心を痛めている。


作品が日常の中から紡ぎ出され、自然体であるのがなんとも好ましい。


年齢を重ねてゆくことを恐れず、「ありのままそのまま生きる」のが
日野さんの願いでもあるのだろう。


      

2015年7月29日 (水)

『夢屑』 島尾敏雄  講談社文芸文庫

夢と現実、実在と不在、「死」を見た作家の、名作短編集。

と、帯に書かれていた。

1976年、59歳の時に『群像』に掲載されたものの文庫化である。

この書は、『死の棘』の最後の章ののち発表された8つの短編がおさめられている。

奥付は、2010年9月10日第一刷発行となっている。




この文庫は、7月のはじめに奄美大島に行き、帰りの奄美空港で買ったもの。
なぜか読み出すと眠くなり、なかなか最後まで辿りつけない。
島尾敏雄の執拗に描き続けてきた〈夢〉のなかに入ると、こちらまで眠くなって
しまうのだった。




本日の室温は32°
扇風機をつけても汗はしとどに。
何度も何度も冷蔵庫の前に。
冷たいお茶を何杯飲んだだろう。
午後4時まではクーラーを入れないっていう覚悟だったが…




「夢の中に現実の関係を投影し…」って、そうだなぁ、と思う。
そういえば、今朝がた見た夢になつかしい人が出てきた。
普段は忘れていた人なのに…






今夜も月が綺麗だろうな。


2015年7月28日 (火)

三浦春馬、軍艦島に上陸   FBSテレビ

たまたまテレビを見ていたら、三浦春馬が出ていた。

5月に彼が出た舞台「地獄のオルフェウス」を観たこともあって、親しみが湧き

そのままテレビを見続けていたら、長崎の軍艦島へ水原希子らと上陸することになった。


軍艦島がまだ世界遺産になっていない2010年 11月 14日にわたしたちは行った。
当日、島のガイドをしてくださったのはNPO法人の「軍艦島を世界遺産にする会」の
メンバーだった。

乗船する前に誓約書を書かされた。島では、飲酒・喫煙禁止。物を持ち込まない、
持ち出さないといった条件が付き、上陸中は胸から社員証みたいなカードを
下げることだった。


軍艦島は端島といい、気象・海象条件によっては接岸困難な日が多く、年間100日
くらいしか上陸できないとも説明された。



1916 (大正5)年、日本で最初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建ったのが
軍艦島(端島)である。1960(昭和35)年には人口が5000人を超えた。しかし、
1974 (昭和49)年、端島炭鉱の閉山により、無人島になってしまったのだ。

世界遺産になった現在、軍艦島を訪れる人はますます多くなっていることだろう。
現にこうしたテレビの放映があると一段と拍車がかかりそう。

ちなみに息子も軍艦島に行きたいと話していた。
わたしは、行くからには歴史的なことも知って欲しいと思い、NPO法人が自費出版した
『軍艦島 住み方の記憶』を送ってやったが…

もう、行ったのかしら?



軍艦島で水原希子も三浦春馬も実に愉しそうだった。
愉しいのはいいことだけど、もう少し、歴史的なことなどにも触れて
欲しかったのだが…だが……


2015年7月27日 (月)

『沖縄・奄美≪島旅≫紀行』 斎藤潤  光文社新書

奄美大島へ旅をしてもう二十日も過ぎるのだけど、今頃になってあの旅の充実感や

奄美への慕わししさがふつふつと湧いてくる。

瑠璃色の海、アダンの木、ハイビスカスの真紅の花。

日本で見慣れた景色とはちょっと違う。

本書の「まえがき」で、斎藤潤は次のように書く。



         沖縄と奄美は、日本ではない。少なくとも、文化的には。
         ぼくは、そう確信している。
         そして、感謝もしている。
         南島が、日本国の一部であることを、日本文化と異なるもう
         一つの文化が、同じ国内に根づいているとは、なんと素晴らしい
         ことだろう。



独特の言葉(方言)、そして、島唄の哀調。
自生している植物だって、海の魚だって、本土とは趣を異にしている。
それらをすべてひっくるめて、沖縄であり、奄美なのだ。
(奄美が鹿児島県っていうのもなんだか不思議。)




与那国島・波照間島・石垣島・奄美大島・加計呂麻島・竹富島はすでに行ったが、
まだまだ訪れていない島々が沢山ある。



屋久島や喜界島などいつか機会があれば訪れてみたい。





ところで、角川『短歌』8月号を読んでいたら、「華」の川涯(かわぎわ)利雄さんの
「奄美へ、一村に逢ふ」のタイトルの短歌が12首掲載されていた。



           田中一村記念館
        凝視してブダイの鱗数へ立つ一村の狂気に人近づかず

        画布の海老あはれ触覚のそよぐなり 物に至る眼、命をゑがく

        削ぎ落し世俗すべてを削ぎおとし息のぎりぎりの命をゑがく




生涯妻を娶らず、ひたすらに描きつづけた田中一村。
その一村の写生の材料を提供した魚屋さんや島人たち。一村が魚の鱗一枚一枚を
凝視し、一枚一枚を丁寧に描くので、しまいには、その魚は鮮度が落ちて売り物には
ならなかったそうだ。「熱帯魚3種」には、アオブダイ・シマタレクチベラ・スジブダイが
描かれている。




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わたしはいっこうに奄美の歌は出来そうにない。


2015年7月23日 (木)

『有沢螢歌集』 現代短歌文庫 砂子屋書房

「永遠の少女のような有沢さん」(解説・尾崎まゆみ)の『ありすの杜へ』(全篇)、

『致死量の芥子』(抄)、『朱を奪ふ』(抄)を収めた書。

ほかに歌論・エッセイと解説を併載。解説は、女優の渡辺えり子。

歌人では小池光・岡井隆・黒瀬珂瀾・斉藤斎藤らが執筆している。

その中で岡井隆の解説は、穏やかな筆致であり、これが書かれた時の岡井の

精神状態などを慮った。



          …略 わたしは、ひねくれ者のせいだらう。あまりによく出来た
          連作よりも、その中にひそと置かれた一首、一首に立ちどまって
          暫くものを思った…略




そして、この解説の終りの方で以下のように記している。




          …略 作者の勤務先が、わたしの若いころ勤めた病院の近くで
          あること、また、目立たない程度にではあるが、キリスト教の雰囲気の
          やうなものが、一冊の底流として流れてゐること、あへて言へば、
          この二つのことが、わたしを少し感傷的にさせてゐるのかも知れない…



さて、歌を抽きたいところだが、この書に収められている歌論に注目した。それは、


          「交わらぬ円」ー白蓮と石川美南の「吾」・「私」をめぐって



で、あり、ここに書かれている白蓮に関する、以下の文章に立ち止まってしまった。





          白蓮の歌は、モチーフの古さを超えた瑞々しいロマンティシズム、
          日常からは異化された歌の世界を現出しているようであるが、実は、
          鬼気迫るほど生々しく「吾」にこだわっている点にその本質があるのでは
          なかろうか。そしてその「吾」は物語化された「吾」であり、歌の中にある
          物語を、後に現実の白蓮がなぞっていたかのように思われる。作中人物
          としての「吾」と、作者としての「吾」の間にある差異を作者の方が何年も
          かけてつめていって同化しているのである。…



          彼女の歌は絵空事ではなく、そのしっこいほどの「吾」へのこだわりは
          彼女の人生に先行するものであった。歌人は歌によって評価しない
          のなら、なにによって評価するのだろう。…略



この有沢の明晰な文章。
歌のなかで差し出された「吾」は、こう在りたい「吾」であり、こう在ってほしい「吾」の
先取りともいえよう。

最後になってしまったが、有沢螢の『ありすの杜へ』の中から、とっておきの3首を。



          死なうかと思ひし時にかかりたり虹を知らせる間違ひ電話

          小太りの薬剤師はかる導眠剤 永遠(とは)の眠りにあと一グラム

          わたくしの心のなかに泣いてゐる若紫よ雀を恋ふな   
 
 

2015年7月22日 (水)

映画 「愛を積むひと」

北海道で第二の人生を送りはじめた夫婦の物語。

佐藤浩市(篤史・あつちゃん)と樋口可南子(良子)が夫婦役。

仕事一途に生きてきた篤史は、北海道に移住して暇をもてあます。

そこで、妻の良子が家の周りを囲む石の塀を手造りすることを提案する。


夫婦を取り巻く人々の〈愛〉を描いているが、折々に挟まれる北海道の自然、

美瑛の台地に心いやされる。



そして、良子の性格がよく、「あつちゃん、あつちゃん」と、夫をたてる姿が健気である。

みんな何かを抱えて生きているのだが、その根っこに〈愛〉があれば生きて

ゆけそうな気がする。




配役で意外だったのは、吉田羊(久留米出身?)が牧場の奥さん(母親役)を
していて迫力があった。吉田は年齢不詳として売り出された?女優さんだが、
ちっとも違和感なく、肝っ玉母親を演じていた。



それにしても、佐藤浩市って、なんてステキなのだろう。
白髪もさることながら、ジャージーを着ても似合う。



北川景子が娘・聡子役だったが、この父親との和解には泣けてしまった。

2015年7月21日 (火)

夕顔と三日月

夕顔の花が咲いた。

今夜は三日月?が、美しい。

夕顔の白い大きな花があたかも三日月に向かって、

「見て、見て」と言ってるみたいだ。

5月12日に双葉だったのが、二か月で花を開いた。

昨年よりも咲くのがはやいような気もする。

これから毎日、ひとつふたつと開いてくれることだろう。




     ゆふがほの真白な花のほぐれゆく ははの残り世はわれの残り生(よ)

                           『暦日』 2012年 角川平成歌人双書

2015年7月20日 (月)

『大西民子 歳月の贈り物』 田中あさひ 短歌研究社

歌誌「合歓」に9年間にわたって連載したしたものを1冊に纏めている。

大西民子の10歌集を丹念に読み解き、その私生活まで踏み込んで考察している。

大西民子は、大正13(1924)年5月8日生まれ。平成6(1994)年1月5日没、享年69歳。

「はじめに」の章で、筆者の田中は大西民子の全歌集の印象を色彩で表している。




        …略 群青色、すなわち濃いブルーではないだろうか。潔癖、誠実、
        悲哀などを総合した色彩である。私はそれを「大西ブルー」と名付け
        たいと思う。 ……略



10冊の歌集の中から高名な歌を1首ずつ挙げる。



        かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

        夢のなかといへども髪をふりみだし人を追ひゐきながく忘れず

        てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれ来る

        報復は神がし給ふと決めをれど日に幾たびも手をわが洗ふ

        円柱は何れも太く妹をしばしばわれの視野から奪ふ

        鰭も持たず翼も持たず終るならむ長き刑期のごとき一生(ひとよ)を

        一本の木となりてあれゆさぶりて過ぎにしものを風と呼ぶべく

        妻を得てユトレヒトにいまは住むといふユトレヒトにも雨降るらむか

        子をなさば付けむと思ふ名のありき幾つもありき少女のわれに

        とどこほる雲のごときは差し措きて力ある者走り続けよ




1首目から『まぼろしの椅子』『不文の掟』『無数の耳』『花溢れゐき』『雲の地図』
『野分の章』『風水』『印度の果実』『風の曼荼羅』『光たばねて』の歌集掲載歌。


なお、7首目の歌は、埼玉県岩槻市の浄国寺の入口付近に立つ歌碑に刻まれている。


筆者、田中あさひの綿密な調査が効を奏して、大西民子の歌を、
より深く味わえた。大西ファンにとってはまたとない1冊であろう。

太平洋戦争の戦中、戦後が青春時代前期と重なってしまった世代である大西。
男性中心社会でかつがつ働いてきた大西民子。



       …筆名の大西の姓は離婚した夫の姓である。十年間待っていた
       夫から急に離婚の話を切り出されたとき、筆名にそのまま大西を
       名乗ることだけを私は条件にした。
                            (『短歌研究』 昭和61年1月)
       

2015年7月16日 (木)

佐竹游歌集『草笛』批評特集  「八雁」2015年7月号

話題になった佐竹さんの歌集『草笛』の批評特集を読んだ。

         
        命と命の関係   黒瀬珂瀾

        言葉と存在     島田幸典

        私とは誰か?    金井淑子



上記の3名が執筆している。
なかでも異色?なのが、金井淑子氏で、哲学・倫理学そしてジェンダー研究が
専門だとか。この「私とは誰か?」は、立正大学哲学科編『哲学はじめの一歩』
春風社刊の抜粋転載らしい。




       ーー略 「私とは誰か?」という問題に向き合うことは、自らの中の
       もっとも語りがたき自分と向き合う中に〈自分の名〉を見つけることを
       意味する。自分の中の「隠されたものとしての、抑圧されたものとしての
       己の存在を、言語化することによって解放されたいという衝動」、それを
       自己肯定することを意味する。ーー略



と、金井氏は考察している。哲学科の学生向けに書いた小冊子らしい。
そして、この抜粋の文章の最後の方でこうも書いている。




       ーー略 これまでよりは少しレズビアンというセクシャル・マイノリティの
       理解が深まったかもしれない、といった次元の問題ではない。





島田幸典の「言葉と存在」は、一読理解できた?ように思う。




       ーー略 私とは何かという問いに積極的な回答や定義を与える
       のではなく、むしろ存在の言いがたさ、存在と言葉のあいだに
       生まれる亀裂と乖離、そこに佐竹の歌は焦点を結ぶのである。ーー略




なんだか、久々に「実(じつ)のある」歌集評を読んだ気になった。




       さまざまなわれを束ねてわれはあるわれのひとりが草笛を吹く
 
       順接の接続詞もて文章をつなぐがごとき生は拒みつ
      
       してるのにしてないふりをしてゐてはしてゐることをしかと語れず

       口にしてわが狭量におどろかる筋道立てて人を謗れば

       手放しで他人を褒むる勇気など持たざりわれは怯みつつ来て

                            佐竹游歌集『草笛』より

 

2015年7月14日 (火)

飾り山 JR博多駅の博多口

飾り山を見に行った。

市内に14ヶ所飾られているがそのなかの一つの飾り山笠。

表は関ヶ原長政武勲の誉で、黒田長政の厳めしい人形が…

人形師は生野四郎氏。

「見送り」と呼ばれる裏側は、長谷川町子原作の「サザエさん」だった。

こちらの人形師は宗田智幸氏。


表・裏側ともに飾り山笠の前には、ベンチが沢山並べられていて、皆さん、

そこに座って眺めたり、前の方まで行き、写真を撮っていた。幼い子どもが

「サザエさん」の飾り山を写生していた。



JRは博多駅は普段と違って大変な人出。

どこからこんなに人が集まってくるのだろうかと思った。



明日の早朝4時59分は博多祇園山笠のフィナーレの「追い山」である。


        さぁ、明日の早朝は追い山だ ! ! !


2015年7月13日 (月)

歌集『モーヴ色のあめふる』 佐藤弓生  書肆侃侃房

机の上に積んでいた歌集や本、そのなかのこの1冊の表紙がなんだか気に

なっていた。どこかで見たような、誰かの写真のような。

今朝、目が覚めてわかった、オーバーラップに。

あとがきに書かれていた「質感ある装丁を手がけてくださいました毛利一枝さん」と。

毛利さんの装丁は定評がある。毛利さんに装丁をお願いできるなんて、いいなぁ。

詩誌『耳空』に毛利さんは写真やコラージュを連載していた。

そのVo1  2 (2009年12月)の『耳空』の表紙には、佐藤さんの歌集の折り返しに

つかわれているモノがおさめられている。(たぶん?)


装丁のことから入ってしまったが、タイトルも歌も佐藤さんの好みというか、指向する

ものが窺える。


         心の真実にそむかず、ある境地に至ってしまったりせず、ときには

         クリシェの力も借り、人がすぐ死ぬこの世をうたいながら、ただよって

         ゆきたいと思います。



カッコいいなと思う。さらりとこういう文章を書けるひとが羨ましい。
さて、さて、歌を挙げよう。




         天は傘のやさしさにして傘の内いずこもモーヴ色のあめふる

         みずうみに心臓あらばあらわるるひとつ水紋巨きくあらん

         雲が……。ねえ縁側に来ておすわりよ、落ちてゆくのはいつでもできる

         人はすぐいなくなるから 話してよ 見たことのない海のはなしを

         渡ることなき橋の上くれないに暮れる空あり空がふるさと

         身ひとつをまこと袋と感じつつ月よ今夜はどこで寝ようか

         あめゆきをみたした椀のかがやきにいまおりてくる上弦の月

         詩を思うときのなずきはいいにおい くちなし色の月が上がった

         いつもより月が大きい 紙芝居みたいな生を生きおおせたい

         大夕焼これはこの世のことにしてたまゆら風に鳴る二日月





口語調・会話体が効果的な3首目、4首目。
7首目は宮沢賢治の本歌取り?
やはりわたしは10首目の「これはこの世のことにして」が好きだ。


歌集後半の「月百首」は、圧巻である。

          

2015年7月12日 (日)

歌集『むかれなかった林檎のために』 中津昌子  砂子屋書房

「仮名遣いについては、本歌集からふたたび現代仮名遣いに戻ることとした」と、

あとがきに記す著者の第五歌集。

旧仮名・新仮名については、いろいろな意見があるが、中津は旧仮名遣いについて

「しんから自分のものになっていないものを体のいい情緒をまとっている感じが消えず…」

と述べている。熟考の末の選択であろう。




       つよい国でなくてもいいと思うのだ 冬のひかりが八つ手を照らす

       匂いあおき並木をぬけてごっとんと返却ポストに落とす旅行記

       御所のなかからわきあがりいる蝉の声 これで何かが終わったという

       鏡の底に冬木の枝はからみあい前のボタンを上からはずす

       笑っていろ、きみは笑っているのがいいそう言ってくれる笑いながらに

       むかしむかしへ戻りゆく母ひきもどすいっそうの舟わたしにあらず

       ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる

       左側にいつもあなたのいたことを思うのだろうさくらの岸に

       ほお紅を刷きたるような朝の雲 おみなご生まねば体がかるし

       これ以上母から母がはみ出ぬようサランラップはきっちりかける






2 首目・4首目のような日常のなんでもないことを捉えた歌に味わいがある。
「前のボタンを上からはずす」など、どうでもいいことだが、そこに何か意味が
あるような気もしてくるから不思議だ。この歌はタイトルにもなった章のなかの
1首で、ボタンをたどたどと外している重いこころの状態が伝わってくる。


この歌集の時期には少しばかり入院もしたが、と「あとがき」に書かれていたが、
そのようなことを知識に入れて読んでゆくと、5首目の歌などせつない。
「笑っていろ、」と言われるのは、笑っていないからで、消沈した作者を元気付けようと
している相手なのだろう。



母を素材にした歌がずいぶんあったが、いずれの歌も母そのひとを活写していた。
母を介護?する日々のなかで、作者は作者の内面をみつめている。



「いっそうの舟わたしにあらず」とうたってはいるが、そこには作者の希求が
託されているようである。




「むかれなかった林檎」という過去形に対して、「あおぞらよりしみでるようにくる
ひかり」を与えたのは、作者のせつなるこころであろう。

 

2015年7月11日 (土)

島唄の夜

奄美大島の旅では、郷土料理を食べること。島唄を聴くこと。この二つを

同時に叶えてくれるお店を予約していた。

島唄で有名な西和美さんのお店「郷土料理かずみ」。

和美さんは唄者&女将さんでもある。

名瀬末広町にお店はあり、予約していて良かったと思ったのは、10人も入れば

満席になるような小さなお店だから。席がタタミなのが嬉しい。

他に3・4人は座れるカウンター席もあるにはあったが…




おまかせコースの付き出しはモズク。
次に出てきた3品は、①いものつる②ズイキ③さつまあげ
刺身の盛り合わせは①キハダマグロ②夜光貝③タコ④烏賊⑤シマウリ



ズイキははじめて食べた。お刺身のキハダマグロの分厚さに驚き、
夜光貝はシコシコしていて美味であった。シマウリの歯触りがよく、サラダ感覚で
いくらでも食べられる。


マガキという珍しい?貝が出た。
奄美大島では、トビンニャとも呼ばれているとか。
巻貝で、マガキは漢字で書くと「蘺」の字らしい。
つまようじを貝の中にそっと差し込み、くるりと取り出す。
この取り出すのが面白くて、二人で全部食べてしまった。



連れ合いは、大島酒造の「高倉」30°をぐいぐい飲む。
わたしは焼酎を飲めないので、もっぱら黒糖入り梅酒。



焼き物は、①アカウルメ②サザエ
2時間を過ぎる頃に、島歌を女将さんと相方の男性がうたいだす。
満席のお客の手拍子で盛り上がる。


もう、おなかいっぱいなのに大皿に煮物が沢山盛られて出てくるが、
ほとんど食べられない。4・5種類はあったと思うけど、酔いで覚えていない。


揚げ物のアオサの天麩羅は食べたけど…




島唄の相方の男性が入れ替わりに来て、このかたのおもてなし?の
うまさに巻き込まれてしまう。
お客が2人1組ずつ、島太鼓のチジンを叩く役目?

      「トントントトン~トントントトン~トントントトン~トントントトン」


酔いも手伝って、叩いた、叩いた。一所懸命に。



最後はみんなで島唄に合わせて踊る。
踊りかたも教えてくれる。
手を前に出すと、阿波踊りになるので、横にひらひら…みたいな。



連れ合いの踊りを見ていたら、なんだか炭鉱節みたいに手を上に突き出している。
笑った、笑った。笑い転げてしまった。




cat   cat

念のため、7月5日(日)に行った郷土料理「かずみ」です。


その日は夕方、大浜海浜公園まで夕日を見に行った。
浜辺には、カメラを構えた人が数人。
家族連れなどもおり、団体客を乗せた大型バスが着く。

東シナ海に沈む夕日をかき氷を食べながら眺めた。



               奄美大島への旅は、これでおしまい。



2015年7月10日 (金)

島尾敏雄旧居・文学碑

『死の棘』や『日の移ろい』を執筆した場所、島尾敏雄の家(県立図書館奄美分館 

分館長住宅)が解体される動き云々ということを新聞で知ったのは、2008年だった。

「傷みがひどく、維持管理が心配」という理由だったらしいが、島尾敏雄と交流の

あった5つの文化団体が存続の要望書を出した。

そんな働きかけもあって住宅は保存された。ほっと胸をなでおろしたのは、5つの

文化団体は勿論だが、島尾敏雄の研究者やわたしのような島尾に関心がある者に

とって奄美市の英断に拍手を送りたい。2007年に亡くなった夫人のミホさんも、

「あの家は残してほしい」(朝日新聞 2008年9月2日 夕刊)と、言っていたそうだ。




古見本通りの道路標識に「島尾敏雄旧居」の文字を見つける。
バスを降りて、歩く。小さな橋(上緑橋)を渡るとほどなく左手に見えた。
まず、文学碑を見学。碑文は島尾敏雄直筆の色紙の一文より。

        病める葦も折らず、けぶる燈心も消さない

                 (「旧約聖書」第ニイザヤ書の句)



道路から入ると、旧居の勝手口の方が表になり、その庭に文学碑が建って
いる感じだが、もともとの玄関は裏側にある。
新しい道路が出来たために、道路から入ると裏口(勝手口)がまず見える。
平屋建ての居室4室くらいか。


島尾敏雄は、昭和40年から50年4月までここで暮らしたのだ。
玄関の屋根を覆いかぶさるように、鼠黐の木が青い実をつけていた。
そして、玄関の門口にはクロトンの木。
そういえば、文学碑の建っていた庭には大きなゴムの木が立っていた。


奄美大島は鹿児島県だけど、植物などほとんど沖縄に近い。
前日に行った加計呂麻島でもゆうな(オオハマボウ)の花が目についた。





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鹿児島県立奄美図書館へも立ち寄った。
この図書館の1階には「島尾敏雄記念室」がある。
当時の書斎が再現されており、開架式の書棚には多くの著書が並んでいた。
直接手に取って、見たり読んだり出来るのは、なんとも羨ましい。





              と、いうことで、奄美大島の旅は、あと1回でおしまいに…

2015年7月 9日 (木)

加計呂麻島へ

奄美大島への旅でどうしても行きたかった加計呂麻島へ。

島尾敏雄が昭和19年11月、呑之浦基地に赴任(震洋隊の隊長として)。

島尾ミホ(大平ミホ)と知り合った場所でもある。

島尾は翌20年、8月13日、出撃用意を命じられるが、最終命令の出ないまま

15日の敗戦を迎える。


奄美大島の、古仁屋より「フェリーかけろま」が出ている。

乗船時間25分ほどで加計呂麻島の瀬相に着く。
船が着くと同時に島内を走るバスが待っている。ここにはタクシーなどはない。


呑之浦には、昭和63年12月に震洋隊基地跡に「島尾敏雄文学碑」が建立された。
それを是非この目で確かめたかったのだ。


文学碑の奥の墓碑には島尾敏雄・ミホ夫人・長女マヤさんが分骨されている。


呑之浦は波が穏やかで岸辺に寄せる波音が心地いい。
ハイビスカスの花が咲き、散歩道が湾に添って続く。途中に壕があり、
復元した特攻震洋艇が保管されていた。


文学碑を訪れる人もいなく、静寂な時だけが過ぎてゆく。
海に向いたベンチに座ってしばらく波音を聴いていた。



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それにしても、ひとつき程前にわたしが見た夢。
それが「加計呂麻島」だった。
脈絡もなく「加計呂麻島」が夢に出たのだ。
(たぶん、「夕映忌」の時に島尾敏雄の話をした、その余韻?かしら。)


ああ、あの島がわたしを呼んでいる、と思った……
                            
                     奄美大島への旅は、まだまだつづく…

2015年7月 8日 (水)

田中一村記念美術館

         いま私が、この南の島へ来ているのは、歓呼の声に送られて

         きているのでもなければ、人生修業や絵の勉強にきているのでも
         
         ありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくために
 
         きていることがはっきりしました。

                         (昭和43年3月、田中一村の知人あての手紙)





昭和33年、50歳で奄美大島に移住。
つむぎ工場で働いて生計を立て、朽ちかけた家に住んで自炊をしながら一村は
ひとりその目的に向かって、仕事を進めていた。





亜熱帯の植物や動物を描いた一村の絵を一度は見た方も多いだろう。


華麗で奔放で、「ビロウとアカショウビン」や「アダンの木」、あるいは「ダチュラと
アカショウビン」などを描いた南国性の色彩が強烈な光を放っていた…。



        私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティであろうが、悪魔的で
       
        あろうが、画の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は

        満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく、私の良心を納得

        させる為にやったのですから…
                                    (田中一村のことば)






清貧で孤高な生き方を通した一村は、ひとり夕食の準備をしている時、心不全で倒れ
誰にも看取られることなく69歳の生涯を閉じた。



田中一村記念美術館は笠利町の奄美パークに隣接している。
奄美空港からほど近く、車だと5分くらいだろうか。


この記念館の建物そして企画・設計の斬新さ。カメラを向けたくなる
水の構図であった。水の上に建物が建っている。




奄美パークではちょうど龍郷町島唄保存会の方たちの催しがあり、サンシンに
合わせて島唄の「上がる日ぬか春加耶節」が響きわたっていた。



11人の子どもたちが舞台に並び、島唄を張りのある声でうたうのを聴きながら
パーク内で昼食の鶏飯(けいはん)セットを頂いた。奄美大島の郷土料理?
ちなみに福岡で食べる鯛茶漬けみたいな感じ。
ご飯茶碗に3分の1くらいご飯をつぎ、鶏肉・錦糸卵・椎茸・漬物・ネギ・刻み海苔・
紅生姜をのせ、その上から鶏ガラスープを注いで食べる。


鯛茶漬けも好きだが。この鶏飯も結構好き。




そんなこんなで奄美大島への旅は、まだまだつづく……


 

2015年7月 3日 (金)

『記憶のつくり方』 長田 弘  晶文社

2015年5月3日に75歳で亡くなった長田弘の詩文集。

第一回桑原武夫学芸賞を受賞している。


       
       記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去った
       もののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。
       じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌と
       なってきたものは、記憶だ。
                         「あとがき」より




長田弘のこの書は「詩」のようでもあり、「エッセイ」のようでもあり、
「小説」のようでもある。
静謐な文章のなかに長田弘の息遣いや体温が伝わってくる?ような…




       海をまえにするとき、言葉は不要だと思う。
       わたしはただ海を見にいったのだ。海ではなかった。
       好きだったのは、海を見にゆくという、じぶんのためだけの行為だ。

                          「海を見に」より




       ひとはひとに言えない秘密を、どこかに抱いて暮らしている。
       それはたいした秘密ではないかもしれない。秘密というよりは、
       傷つけられた夢というほうが、正しいかもしれない。けれども、
       秘密を秘密としてもつことで、ひとは日々の暮らしを明るく
       こらえる力を、そこから抽きだしてくるのだ。
 
                           「路地の奥」より

                                     1998年1月刊行




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昨日届いた「未来」7月号の後記を読んでいたら、編集・発行人の
岡井隆さんが、「記憶」について書いていた。



       脳科学者の話では、記憶とは記憶しているだけではだめで、
       記憶している知識を使えば使うほど、記憶は冴えるのだそうだ。
       たしかにその通りで、このごろ賢治(宮沢賢治のこと)についての
       知の記憶は、頭の中で眠っているうちにぼんやりして来ていた。
       いい機会を与えてもらって、それが、多少活性化した感じがあった。




現代歌人協会の主催するシンポジウムでの「宮沢賢治」の短歌について
話し合ったことを、このようにポジティブに受け止めている。
さすが、というか、岡井さんだなぁ……




それにしても、わたしが死んだらわたしのなかの「記憶」はどこへ行くのだろう。
好きな猫のことや、読んだ詩集、本、短歌、は……
 
 
       

2015年7月 1日 (水)

博多祇園山笠はじまる

今日から7月。

今日から博多祇園山笠がはじまる。

博多の街が祭り一色に染まる。

雨が降っても男たちは勇ましい。

法被姿の男たちがすてきに見える7月である。




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ミニトマトを2本植えているのだが、今朝青い実を数えてみたら100個近くなっていた。

これは、多いのか、少ないのか。ともあれ赤く色付くのがたのしみである。

ゴーヤも可愛らしい実が3個ほど下がっている。この雨でぐんぐん蔓が伸びてゆく。


今日はこれから雨の中を久留米まで。

電車に乗るので、念のため携帯ラジオを持って行こう。

物騒なことが起きる世の中なので、「平穏無事」を願うのみである。

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