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2015年10月

2015年10月30日 (金)

「九大短歌」 第三号

ピンクの表紙の第三号。

「九大短歌」は、着実に前進している。

山下翔の気合の程が窺えるような第三号であった。

       鹿は秋、つてみなは言ふけどあなたとは――長く連絡を取つてゐない

       長浜行きに乗つたはいいが大垣で降りそこなつて琵琶湖が見える

       さくらさくら皿倉山の窓の外(と)に見えてはるけしその一枚の

       去つてゆく人におのづとなるものか旅の終はりの巣鴨の夜の

       航海に出ない帆船をさめたる壜とわれとが玄関にゐる

                           「交流」30首より      山下 翔







2・3・4首目と、固有名詞が入った歌を採ってしまった。固有名詞がうまく機能して
いる。2首目は移動している作中主体に従って読み手にまて゜琵琶湖が眼前に。


3首目の歌の初句から2句目の音の快さ。「知つたふうにS音……などと評をする奴」と、
嚙み付かれそうなので、これ以上は言うまい。


4首目は、結句が「巣鴨」だからいい。他の言葉に置きかえられそうだったらアウト。
いつか「福岡歌会(仮)」と、合同歌会をした時に、この固有名詞の置き換え可能な
点について、Kさんが黒瀬珂瀾さんに食い下がっていたけど、あの時の黒瀬さんの
対応は見事だった。(横に座っていてヒヤヒヤしたけど…)


5首目、玄関に飾られている壜のなかの帆船。帆船ってそれだけで詩情たっぷり。
そのたっぷりとある詩情をどう捌くか、なのだろう。





山下は、結社「やまなみ」に入っていると聞くが、結社にいる恩恵?が歌に少なからず

良い影響を及ぼしているように受け取れた。そういった意味では、長く短歌を続けていく

ためには、結社に入って修辞の問題や文法など地道に会得していくことも一つの

方法だろう。






作品10首から各々1首を下記に。

     公式を使いこなせぬ生き方を憂いて私は少女Aになる        菊竹胡乃美

     もう二度と来ることのない路地裏でさよならの為の電話を終えた  凌  若菜
     

     九割九分ノイズなのだろうやさしさは未だ発展途上の夕暮れ    真崎  愛

     鍵穴の孤独を鍵が埋めている これ以上やさしくてどうする     松本里佳子


他に「一首評」を、凌若菜と真崎愛と山下翔の3名が執筆。






編集後記に「参加者の高齢化(と言っていいのかなあ……)が進んでいるのが気に

なっています。……略」と書いてあったけど、「高齢化」って、何歳からが高齢なのだろう。



じゃあ、わたしたち(私)は、古代遺物?(笑)

                                              

      

2015年10月29日 (木)

有明の月

目が覚めたら有明の月が西空に。

その月を眺めていたら、ああ、わたしは日本にいるのだとため息が出た。

朝、成田を出発の筈だった。

明日は、マドリッドを観光して、午後はトレドを観光する筈だった。

結局、息子に20パーセントのキャンセル料まで払わせてしまった。

彼はスペインに行ったのか?

怖くてメールもしていない。





昨日は八女へ往復 4 時間かけて行った。

滞在時間 1 時間、義母の容態が気になっていつも頭の中は義母のことばかり。

毎日、薄氷の上を歩いているような…






桂保子さんの歌集『天空の地図』(ながらみ書房)にあった歌を思い出す。



       泣かないでほしいと今夜も言はれたりいちばん泣きたいだらうひとより


泣いている時間はいまのわたしにはない。

ひとつひとつ丁寧に心を込めてするしかない。




ガーデンシクラメンの花の赤さがまぶしい。

2015年10月27日 (火)

「今日が一番若く、新しい…」

すてきなメールをいただいた。

画廊カフェ「銀の時計」のママさんから。

短歌をなさっていたかたで、ママさんになって3年目。




      「今日が一番若く、新しい」とわが身に言い聞かせつつ励みます。





と、書かれていた。

なかなかお店に行く機会がなかったのだが、昨日テレビに出ていた。

生き生きとしてママ業に励んでいるのを拝見して、うれしくなったのでメールを

したら、返事が来た。

ちなみに場所は北九州市小倉北区室町。そのカフェで時々イベントも

しているようなので、お近くに行かれたかたは立ち寄ってみられたらいかがでしょう。






cat     cat

ガーデンシクラメンを 7 株と、ビオラを 6 株植えた。

ガーデンシクラメンは真っ赤なのにした。

朝、目が覚めたらこのかわいい花たちにいちばんにあいさつしょう。

2015年10月26日 (月)

『近代短歌の範型』 大辻隆弘 六花書林

『子規への溯行』(平8)、『アララギの背梁』(平21)に続く三冊目の評論集。

「読ませる評論の書き手」なんていう惹句を勝手に思いついたのだが、

書くことが愉悦のような文章を読むのはたのしい。





      第Ⅰ部  斎藤茂吉に関する論考

      第Ⅱ部  税所敦子・正岡子規・長塚節・石川啄木・島木赤彦らの

             歌人の作品及び論考。

      第Ⅲ部  佐藤佐太郎と前川佐美雄に関する論考。

      第Ⅳ部  山中智恵子・森岡貞香・粕原千惠子・米口實らの作品に

             ついての論考。






近代短歌に焦点をしぼり、その歌の読みについて丁寧な解説及び論が展開されている。

いずれの文章も読みやすく示唆に富む文章ばかりで、マーカーを沢山付けてしまった。

しかし、その文章にも好みというものはあるもので、わたしは以下の章が好きだった。





      心を飛翔させる術(正岡子規)

      彫りの深い作者像(島木赤彦)

      ディレッタンティズムの放恣(中島敦)

      意識流の記述(森岡貞香)

      佐太郎の助詞(「て」と「を」)






たとえば、中島敦の章で書かれていた「うわべだけの視覚的印象として中島の

意識を横切ってゆくだけだ。これらの歌には『こころ』はない。」 あたり、歯に衣着せず

ズバズバと書いている。





近代短歌を御浚いしょうと思うひとにはうってつけの評論集である。

ただ、ちょっと気になったのは、筆が滑り過ぎている気がしたのは、

「確定条件の力」(斎藤茂吉)と「子断ちの思想」(山中智恵子)の章だった。

これは個人的な感想なので何とも言えないが…






それにしても、第Ⅳ章で書かれていた「多元化する『今』」「三つの『私』」は別章を設けて

もっともっと論じてほしかった。

「刹那読み」「物語読み」っていうことを、「三つの『私』」の文章で知った。

若者たちに是非読んでほしい一冊である。



                                 2700円+税




    

2015年10月25日 (日)

歌集『駅程』 島田幸典  砂子屋書房

前歌集『no news』 の刊行が2002年。

以降の10年間の作品605首を収めている、著者30代の作品群。






        くすのきの下に憩える軽トラの窓のガラスに葉影はあそぶ

        救急車遣らわんとしてわが車列有機体的動きをはじむ

        わかくさの妻はもわれのかたわらに所を占めて寝返りをうつ

        片脚のなき鳩ありて脚のなきことを思わぬごとく歩きぬ

        蔬菜売る露店のひとは客おらぬときに蔬菜をしきり動かす

        との曇る阿児(あご)の浦廻(み)に風待ちの船は棺のごときしずけさ

        0系は身震いなせりかたわらを走り抜けたるのぞみの風に

        あおさぎが嘴あさく銜(くわ)えたる魚はかがやく抗いながら

        花冷えや旧出石藩城下町珈琲碗をうつ匙の音

        退室を確かめてのち氷(ひ)のごとき寸評はひとの口を出で来も




こうして、書き抜きながら思うのは、対象への接近というか、捉えかたが面白い。

時間の推移あり、発見ありで、作者の思いは伏せられている。伏せられているが、

作者の関心のありようは歌集1冊を読むとほのかに伝わってくる。

今迄に味わったことのないような読後感が残る。

「あとがき」でいみじくも述べている「歌集は、単なる生活記録ではない」にも関わるような。






1首目、「葉影はあそぶ」が発見なのだが、それを持ち出すために、4句目までの
     場所の提示。

2首目、「有機体的動き」とは何ぞや?と、思うが、なんとなく伝わってくるのが不思議。

3首目、「所を占めて」など、「わかくさの妻」に言うところがなんとも可笑しい。

4首目、「脚のなきことを思わぬごとく」の発見。これってなんだか普遍性がありそう。
     
5首目、「客おらぬときに」「しきり動かす」って、やはり観察していないと見落としがちな景。

6首目、「柩のごときしずけさ」に在る船、それは4句目までの場所と時間の提示。

7首目、身震いをした0系の原因は、走り抜けたのぞみの余波で。

8首目、抗うから「かがやく」魚。

9首目、俳句的詠方。

10首目、こういうひとはいる。本人の前ではなんにも言わないのだが…






と、10首にわたしなりの寸評?(感想)を記してみたのだが、この歌集は、じっくり
矯めつ眇めつ読まなければいけないように思う。


時間の推移ということをことに感じたのは「羽ばたきてのち」「浄めたるのち」「そののち」
「去りしのち」のような「……のち」の歌が何首かあったことからの感想。(下記に。)






       放たれし弾みのありしありさまに羽ばたきてのち水は残れり

       立膝に十字を切りて敗戦を浄めたるのち走り去(い)にけり

       鯵焼いている間に今朝を受けいれるそののち深くなる雨の音

       ちんどん屋さびしき曲の去りしのち泰山木の花は残れり




  

                          2015年10月刊  3000円+税

 

2015年10月22日 (木)

超結社歌会

北九州での月1度の超結社歌会。

思えばもう17年以上継続している。

このところ題詠歌会が定着。本日のお題は「告」。

広告・告白・告知・予告・告示・申告・告天子・春告鳥など。

勿論、そのまま「告げる」というつかわれかたも多くあった。

密告や忠告がなかったのは、みなさん穏やかな歌を作るという証左?か。




お茶を飲みながらの雑談では、はやくも12月の忘年会の日程が決まってしまった。

1年の過ぎるのがなんともはやい。

街はハロウィンで盛り上がっているし、それがすんだらクリスマス商戦かな。








歌会がすんで、駐車場から見たイタヤカエデ。

梢の方は紅葉していた。

紅葉のイタヤカエデが夕日に映えていた。

2015年10月21日 (水)

赤銅御殿跡地の白蓮歌碑(別府・青山町)

駅前から3人で乗ったタクシーの運転手さん。

このあたりでどこか観光にいいところありますか? と、尋ねたら

「柳原白蓮の赤銅御殿はどうですか」と言う。

「ただし今は壊されてないけど、公園に歌碑が建っていますよ」と言い、

白蓮の歌をすらすらと 2 首 声に出す。

後部座席に座っていたわたしは驚きと感心の入り混じった気持ちでため息。

運転手さんが言うには、あなたがたみたいには、みんな反応してくれず、

わからないんですよ~みたいなことを仰る。

こういう運転手さんが別府に居たことが嬉しく、

3人で「行きます、行きます。歌碑を見に」とそのまま直行。

1979年、赤銅御殿は取り壊され、住宅地になってしまった。

白蓮と社会運動家の宮崎龍介が知り合った別荘(赤銅御殿)は跡かたもない。

小さな公園の一角に、運転手さんの諳んじていた歌が碑に刻まれていた。




       和田津海の沖に火もゆる火の国にわれあり誰そや思はれ人は




この歌は『幻の華』の巻頭に収められているらしい。

公園では運転手さんも降りてきていろいろ説明してくれる。

歌碑の左後方のず~っと先が高崎山?とか。

運転手さんはわたしたち 3 人の写真を撮ってくれたりして、実に親切だった。

2015年10月19日 (月)

『ユリイカ』 菊池裕歌集  砂子屋書房

集題の「ユリイカ」は「詩の原理」を発見したい思いから名付けた。--と、

「後記」にある。

山口昌弘の装丁がモノクロで実に味がある。





          --略 

          小学生の頃、夏休みに旅行気分で父の属する結社「未来」の全国

          大会に同行した。近藤芳美に「『青春の碑』おもしろかったよ」と告げたら
          

          「よく読めたね」と頭を撫でられた。その翌年も翌々年も「未来」の全国

          大会に行った。一歳年下の吉田漱さんの娘と「また来年も会おう」と

          約束したからである。--略







「後記」のこの文章に昔々の「未来」のアットホームな雰囲気をほのぼのと
思いかえしている。





          孤独死と自然死の差異 さりながらどちらが永眠なのか戸惑ふ

          顰蹙は買つてでもせよ そのひとの〈自腹を切る〉といふ比喩あはれ

          もうちよつと左に寄つてくれないかいやもうすこし右でもいいが

          古書店で私が売つた本を買ふ読んでまた売るわたくしのため

          東京は消滅しないなんて嘘 すでに国会議事堂がない

          死は怖くないが黙殺されるのが怖いと云つて憚つて泣きぬ

          軍需とふ商売ありぬ またひとつ民間戦争請負会社

          よく見れば老人ばかり、よくみればらうじんばかり、よくみれば、老……

          わたくしが〈私〉を検索するといふ遊びの果てに襲ひ来るもの

          不謹慎なれども不意によぎりたる〈戦場萌え〉といふエロチシズム







政治的な事象や社会を取り上げている一方、その表現はやや当事者意識から

一歩退いているようにも思う。それが何なのか考えているのだが、9首目の「といふ」

のような「聞いた話ですが…」的な、表現によるのかも知れない。

直截的な表現をしないのは、ある意味で責任回避の気がしないでもないが…





しかし、しかし、読んでいてわたしには歌集全体から伝わってくるビターが口に合う。

5首目の下句なんて、そういえばそのような気がしてくる。在って無きがごとしだ。

直球の表現でなく、変化球かな。


余談だが、9首目はエゴサーチのことだろう。
朝日新聞の10月17日付けで「エゴサーチしたことはある?」の記事は勉強になった。

「絶対に『過去』にはアクセスしないと決めた」と答えた女性は、生き方の問題として
自分検索に縁を切ったそうだ。






わたくしごとだが、つい先日、同窓生が「フェイスブック見たよ」と電話が掛かってきた。
「フェイスブックしてないよ」と言ったら、「写真が載ってた」だって。
「違う、違う、同姓同名でしょ」。


だって、わたしはフェイスブックもツイッターもしていないもん。

 

2015年10月16日 (金)

約束を破棄

2年に1度の旅行の約束を破棄した。

今年で4度目だった海外旅行。

旅行先はスペイン。





行くかどうするか迷っていたが、結局わたしはキャンセルした。

いまスペインなどへ行ってる場合じゃあない。

行ってもきっと心が重いことだろう。

連れ合いは「行っておいで」と勧めてくれたが、やはり、行く訳にはいかない。



「ごめんね、ごめんね。」と何度も詫びた。



「了解しました」のたった1行のメールがかなしい。

2015年10月13日 (火)

マドカズラ

いただいたホトトギスと水引草・フジバカマ、そして金木犀の花の中に、

葉っぱに穴のあいた植物があった。観葉植物みたいだったので

モンステラかと思ったけど、モンステラは葉っぱに切れ込みがある筈。

モンステラだったらもっと葉っぱが大きいよね。





あれこれ調べていたら、どうも「マドカズラ」というものらしい。

葉っぱに窓が開いたようにあるので、マドカズラ??

ホトトギスと一緒に活けるととても相性がいい。

楕円形の葉っぱに楕円形の窓が6〜10個ほどある。




はじめて見た葉っぱなので、うれしい。

今度 S さんに「マドカズラ」で正しいのかどうか聞いておこう。




今日は帰宅して花を飾るのに花器を選んだり、あっちの部屋こっちの部屋、そして
義父と母の遺影の前のお花も差し替えた。


そういえば、今年は福岡は金木犀が咲くのが遅かったような、
この2・3日、外を歩いているとどこからともなく金木犀の香りがしてくる。


2015年10月12日 (月)

『歌人 土屋文明 -ひとすじの道ー』 塙新書

土屋文明記念文学館編。

たぶんこの書は群馬の文学館で購入したものだろう。

先日、新書と文庫の本棚を整理していて見つけたもの、読みなおすために取り出して

いたのを、この連休中に読了。

とても読み易く、今回新しい発見というか、面白さに気づく。

たとえば、万葉集の496の、





     み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも   柿本朝臣人麻呂





この歌の「浜木綿の葉の幾重にも重なる状態」といった従来の(学者や研究者の?)

解釈に対して、真っ向から反対していることである。

文明は「植物ではなく、海の波をハマユウと言った」と説いている。

そして、「と、言っても歌学者とか国文学者とかの博学者たちを相手にするには

老いぼれすぎた。」と書いたのは、昭和55年であった。(当時、文明90歳)

     ー略 土屋文明は、まず歌人であったが、同時に万葉学者であり、その万葉集に

     対しては、あくまで実作者としての眼を以て厳正に全二〇巻の作品を批判した。

                           四  万葉散策   宮地伸一




     
     
   

この書は6章にわかれており、各章ごとに執筆者がいる。


      一   榛名山        後藤直二

      二   『ふゆくさ』の頃   清水房雄

      三   アララギ       本林勝夫

      四   万葉散策       宮地伸一

      五   山下水        吉田 漱

      六   青南の日々    小市巳世司






1990年100歳で亡くなった土屋文明だが、文明の歌や言葉は今もなお新しくて
わたしは惹かれるのだが…

2015年10月 9日 (金)

月に寄り添う明けの明星

今朝は早起きをして「月に寄り添う明けの明星」を観た。

まだこの時間には起きている人の方が少ないようだ。

午前5時過ぎ、新聞はすでに届いていた。

東の空に細い三日月がうかび、その三日月に寄り添うように明けの明星(金星)が

光っていた。

夜空を眺めていると、この世のいろいろなことが寸時でも忘れられるのがいい。

明日の明け方は火星・木星まで接近するらしいので、これもまたたのしみだ。


ISS(国際宇宙ステーション)を観るのもたのしみの一つだが、昨夕は午後6時過ぎが

福岡上空だったので、明る過ぎて肉眼では観ることが出来なかった。

明日の福岡上空は、18:05〜18:07分、北西の空から北北西の空へ消えていく  ?  ?

しかし、明日も条件が良くない。

10月22日の18:54〜 19:00の方が肉眼で観ることが出来るだろう。

北北西から北東〜東南東に消えていく筈。但し、晴れていたらだけど…


油井亀美也(ゆい・きみや)さんが手を振ってくれるかも知れない。(笑)




その油井さんのYou Tube「宙亀通信(そらかめつうしん)」は、とても愉快だ。

この前なんぞは、ラグビーのユニホームを着て、左脇にラグビーボールを抱えて

「がんばれ ! ラグビー日本代表!」と、応援のメッセージを送ってくれた。

いちばん遠方からの応援だったのではないかしら。






油井さんは、声もいいし(笑)、ユーモアもあるし、愉しいひとだ。

福岡のことを気に入ってくれているし…(もう、わたしはファンになった。)

何しろこの「宙亀通信」のオープニングテーマ曲は、気合が入っていて、とにかくいい。

皆さんもご覧あれ ! !






2015年10月 8日 (木)

紫苑(しおん)の花

散歩の途次、紫苑の花を見かけた。

丈の高さは1メートルをゆうに越えている。キク科の直立性多年草。

茎頂に青紫色の花をたくさんつけている。

丈が高いので先日の台風で倒れているのもあった。

子規の俳句に紫苑の丈を詠んだのがある。





      淋しさを猶も紫苑ののびるなり    正岡子規





紫苑の花といえば、真っ先に思い出すのは大西民子の歌である。

      道のべの紫苑の花も過ぎむとしたれの決めたる高さに揃ふ

                        『野分の章』 大西民子






この歌は、第 6 歌集『野分の章』の巻頭に収められている。

この歌の下の句「たれの決めたる高さに揃ふ」を、大西は自解100選の『大西民子』

(牧羊社)で下記のように書いていた。





      或る晩、遠方の友人から電話がかかって来て、驚かされた。

      「たれの決めたる、と言っているが、植木職人のことでも指(さ)しているのか」
     

      と、尋ねられて、私は当惑した。説明のしょうがなかった。説明を必要と

      するような歌は歌ではないと私は思っていたのだから。



大西民子の当惑ぶりが窺える。

下の句をそんなふうに鑑賞されたらこの歌の良さが消えてしまう。

その下の句こそが<詩>であり、作者の「直感的な感性」なのだから…


 

2015年10月 7日 (水)

夕暮れのいろは/想い出のいろ。

タイトルの「夕暮れのいろは/想い出のいろ。」は、鉄道写真家の中井精也さんの

9月28日のブログの文章から借りたもの。

中井さんには「1日1鉄 !」というブログがある。

ノスタルジーのただよう素敵な写真をいつもたのしみに拝見している。

東武日光線/栗橋ー新古河での写真がことにわたしは好き。

茜空を背景に写した電車、10月3日の写真はわたしのブログのデザインに

つかいたいくらいなのだ。

10月6日の降るような星の下のちいさな駅のホームもいい。

(「暦日夕焼け通信」のデザインの写真は「ココログ」提供のもの。現在つかって

 いるのは中井精也さんの写真。)






なんて、つらつら思ったのも、8月から9月、そして10月と2・3日おきに電車に

わたしは乗っている。定期を買ったほうがやすいくらいなの。



今日も帰りは「羽犬塚(はいぬづか)」から乗車。

筑後平野のかなたの山に沈む夕日を眺めながらの帰路であった。



      ☆ ☆ 夕暮れのいろは

           想い出のいろ。 ☆ ☆

2015年10月 6日 (火)

露の世は露の世ながら…

秋晴れのさわやかないちにち。

秋の陽はリビングのテーブルのところまで斜めに射している。

今朝早く、大判のタオルケットを洗った。このお天気で、まもなく乾くだろう。



こんな秋の日はなんだかものがなしい。

「露の世は露の世ながらさりながら」の、一茶の句をつぶやく。

果敢無いいのちを思うが、「さりながら」生きてゆくべしと思う。




「NHK短歌」の再放送を観た。

今日は佐佐木幸綱さんだった。ゲストは女優の杉本彩さん。

彼女は動物愛護活動家としても知られている。猫を8匹・犬を3匹飼っている?らしい。

題詠「犬」。

日曜日にたくさんのメールを頂いたが、教室の二人が入選していた。

しかも、一位と三位。M さん、 S さん、おめでとう。

みなが喜ぶのも当然だ。9首のうちの2首を占めていたのだから。

みんなそれぞれたのしみながら、作り続けていってほしいとねがう。



そして、秋はかなたこなたで短歌大会が催される。


2015年10月 5日 (月)

映画「天空の蜂」江口洋介主演

シルバーウィークに行ったら満席で観ることができなかった映画。

時間があき、席がとれてようやく観ることが出来た。

東野圭吾が1995年に発表した同名小説の映画化。

原発テロとその攻防ということで、ハラハラドキドキの映画だ。




湯原(江口)が設計したヘリコプターがテロによる遠隔操作で原発の上空で
ホバリングするという事態に陥るのだが、よりによってそのヘリコプターに湯原の
小学生の息子が乗っている。


犯人の要求は、3つある。

その要求に対しての攻防、日本政府はどのような決断を下すのか、

墜落予告時間の緊迫した8時間。



主演の江口洋介の果敢な働きによって…

しかし、映画を見終えたあとで思ったのは、セキュリティがこんなに緩い筈はないと
思ったことと、仮に原発そのものがテロに遭遇した時に日本の国はどうなるのだろうと
いう怖さだった。



単なるアクション映画として観ることができないくらい、見終わったあとの思いの方が
重い映画だった。






本木雅弘は影のある役を体全体で表現していたし、綾野剛は、汚れ役(?)に徹し

切っていて凄みがあった。

映画の最後の方で、湯原(江口)の成人した息子役でちょこっと出ていたのは、向井理か。

2015年10月 2日 (金)

『思川の岸辺』 小池光歌集  角川書店

大きな大きな衝撃となった妻の死、その死から5年を迎えて編まれた第9歌集。

2010年から2013年の作品、542首を収めている。




      ーー略

      二〇一〇年の十月に、癌で妻和子を亡くした。癌が見つかってから、

      闘病二年十ヶ月であった。             「あとがき」より






      仏壇のまへの畳にあかんぼの志野ねむらせし三十年のむかし

      わが妻のどこにもあらぬこれの世をただよふごとく自転車を漕ぐ

      なくなりて三月(みつき)過ぎたるうつしよに「生きて負ふ苦」の雪ふれりけり

      そこに出てゐるごはんを食べよといふこゑはとはに聞かれず聞かれずなりぬ

      ああ和子悪かつたなあとこゑに出て部屋の真ん中にわが立ち尽くす

      昨夜(よべ)つくりし鍋の残りを朝に食ひ残りの残りを昼に食ふなり

      夏になりて水をたくさん飲む猫よのみたまへのみたまへいのちはつづく

      家裏のどくだみ群落はきみを苦しめききみなきいまはわれが苦しむ

      老衰の日に日にすすむ猫とゐてかくれもあらぬ春となりたり

      歳月の過ぎ行くはやさ柿若葉かがやける日はきのふのごとし






1首目の歌は、『廃駅』の「をさな子は来りて睡る仏壇のめぐりすずしき風通ふゆゑ」を
思い出させる。



3首目の歌は、『バルサの翼』の高名な「雪に傘、あはれむやみにあかるくて
生きて負ふ苦をわれはうたがふ」が下敷きにある。




そして、4首目は『草の庭』の「そこに出てゐるごはんをたべよといふこゑす
ゆふべの闇のふかき奥より」に呼応している。




妻を亡くした男のあわれさ、かなしさ、やるせなさが充溢した一集といっても過言では

ないが、1・3・4首目の歌のように、伏線としての歌をわたしたち(?)はすでに識って

いるので、より作品(作者)に対して親しみが湧き、共感する。




10首目の歌を読んだ時に思い出したのは、『廃駅』の「廃駅をくさあぢさゐの花占めて

ただ歳月はまぶしかりけり」だった。




第9歌集『思川の岸辺』は、通過儀礼としての要素を多分に孕みつつ、「あとがき」で

記している「区切りを区切りとして受け止め、さらに新たに前に進まねばという気持…」

なのだろう。





           P・S  『思川の岸辺』の花の歌については、このブログの

                前日にも触れています。



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今日の珍事2つ。

16時26分、留守中に入っていたファックスは白紙だった。FAX番号も記載されていず、

どなたが何の用件で入れたのか皆目わからず。どなたさまでしょうか ? ?




「未来」10月号が届いた。
選歌後記を読んでいたら、「福岡県春日原市」とあった。福岡県には春日原市って、
ないんだけどなぁ。そして、「作風から若い男性の方かな……」って、書いてあった。
若い男性 ? ?


   

 

 

 

2015年10月 1日 (木)

秋明菊もかなしむ

福岡市の暴風雨警報は解除されたものの、まだ風雨がはげしい。

リビングの窓をすこし開けておくと「もがり笛」のような音がする。

火曜日に U さんからいただいた秋明菊の花は水揚げがうまくできなくて

枯れてしまった。秋明菊は茎が細いので水揚げが難しい。

U さんは茎の切り口を焼いて(焙って)持って来てくださったのだが…

やはり庭に咲いていたままの方が良かったのに。

ほんとうに花に悪いことをしてしまった。 

それにしても今夜のこの風雨で庭の花たちも揉みくちゃになっていることだろう。

わがやの夕顔の花ふたつも揉まれて揉まれてかわいそうなことよ。







『思川の岸辺』小池光歌集にも秋明菊の花の歌がある。

4首だったか、それぞれの年にうたっている。






      ちりぢりになりゆく庭の秋明菊のこりななつの花を惜しまむ

      こんなにもまぶしくことし花つけし秋明菊にきみに声かく

      秋明菊のひとつの花をめぐり飛び去りてゆきたるしじみ蝶ひとつ

      ひとつのみ花咲いて枯れてしまひたることしの秋明菊もかなしむ

                      『思川の岸辺』小池光歌集 角川書店

                                 2015年9月25日発行







2首目の結句は亡くなった「きみ」に声をかけているのだろう。
「秋明菊に」「きみに」と並列にしたところがこの歌の核。
この世にいない「きみ」、秋明菊のまぶしさが悲しみをいっそう募らせる。


4首目の「秋明菊もかなしむ」は、作者が悲しみにくれているのに、秋明菊さへも
かなしんでいるようだ…と、鑑賞したのだが。

「きみ」が亡くなって、きみの死をかなしむように、秋明菊も年々花数が少なく
なってゆき、たったひとつのみ咲いた花も枯れてしまったのだ。






明日はこの小池光歌集『思川の岸辺』(おもひがはのきしべ)について、
書きたいと思っている。


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