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2015年11月19日 (木)

歌集『昼の夢の終わり』 江戸 雪  書肆侃侃房

2014年7月に前歌集『声を聞きたい』が刊行された。

それから1年余の第六歌集『昼の夢の終わり』である。

歌集題に託された作者の思いなどを想像しながら読んだが、

まだ、答えは出ていない。






         陽を揺らすスズカケノキのそばに立ちはげしさばかりもとめた日々よ

         この夏は鈍感になろうこの夏が過ぎたらひとつ臓器を喪くす

         いちはやく秋だと気づき手術台のような坂道ひとりでくだる

         若さとはざらつく樹皮のようだったその思惟のなか沈丁花におう

         さびしくてもう松ぼっくりになろうかな土佐堀通りをしばらく歩く

         水晶橋わたって蕎麦を食べに行く夏至のあおぞらゆるゆるとして

         いいひとになりたいのんか渡されたクリアファイルが腕にはりつく

         淀川の縁にて食める焼きそばのああかつおぶしが飛んでいくがな

         誤解されだめになりたる関係を舟のようにもおもう窓辺に

         黄濁のトウモロコシを茹でており正しさでひとを責めてしまった






「蕎麦」・「焼きそば」・「トウモロコシ」と食べるものが挙げた歌のなかにもあるのだが、
生活臭がほとんど伝わって来ない。それらの食べものは、うたの素材として
機能しているのだが、そこから生活の何も透けて見えてこない。



「生活をうたえ」などと、野暮 ? を言うのではないが、歌を<詩>に仕立てるために
腐心し過ぎているように思えるのはわたしの老婆心だろうか。




そして、取り上げた歌がわたしの恣意的なものといえばそうなのだが、

1首目の過去を振り返るまなざし。

2首目の「鈍感になろう」の負 ? の希求。

4首目の若さに対するイメージ。

5首目の「松ぼっくり」は、後退の比喩。





などの作品を読むと、やはり「1ヶ月ほど入院して手術をした。」ことが作者の精神に

作用しているように思う。

喪失感のいたましい感覚がひりひりと伝わってくる。



まだまだ若いのだし、もっと奔放に生きてもいいのでは……

前歌集の『声を聞きたい』の、能動的なタイトルから、このたびの『昼の夢の終わり』は
何かにケリを付けるようなと、思えなくもない。



7首目・8首目のような関西弁の勢いのある歌を、もっと、もっと、詠んでほしい。

 

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