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2016年11月 6日 (日)

 山下翔「温泉」50首を読んで   『九大短歌』 第四号

第三号の「編集後記」に書かれていた「次号からは無理をします。どうぞ

お楽しみに ! 」 が、実行されている第四号で安堵(笑)した。

山下翔は、正直者というか、誠実な男だ。そして真面目な男だ。






今号の「温泉」50首を一読した時は彼女のうちでも行ったのかしらん、

と思い、読み飛ばしてしまっていた。

再読、三読するにつれて、ようやくわかったこと。

それは、作品の背後に流れる山下のふつうの家族に対する憧憬だった。

山下の育った家庭環境は知らないが、作品の背後から伝わってくる気分は

せつない。




   

  ばあちやんが死に犬が死にあとなんど死に立ち会ふかわがこととして

  ただいまときみが言ふ家の暗がりをこんにちはと明るく言ひて通りぬ

  きみもこの家に育ちたるひとりかと思へばつらいごちやごちやの玄関

  湯桶かさねてかさねてたかき歳月の向かうとこちら母と子のわれ

  会はないでゐるうちに次は太りたる母かも知れず 声をおもへり

  この夏をいかに過ごしてゐるならむ花火のひとつでも見てればいいが

  缶ビール缶チューハイの缶たまり母の玄関せまくしてゐむ

  ほむら立つ山に出湯のあることのあたりまへにはあらず家族は

  梨水(なしみづ)のしみとほる夜のあかるさや家のあちこちに暗がりがある

  温泉のごとき家族か湯冷めしないやうに泣きながら帰つてゆかな






きみの家にきみと行き泊まる、その折の連作だろう。

きみの家族や、きみの家の在り様に接しているうちに、思いは実母の上に。

4・5・6・7首目は、山下翔の家族、それも母親をうたっている。




その母親ともめったに会うこともない。

会うことも、帰ることもない、母子関係。

それでいて母恋しさはたっぷりあるし、案じてもいる。

7首目の「母の玄関」は、きみの家の玄関(3首目)とも呼応している。




そして2首目の「家の暗がり」と、9首目の「家のあちこちに暗がりがある」も

呼応している。山下には、「家」は明るいばかりのものでなく、光と影として

認識されているようでもある。



8首目にいみじくも「あたりまへにはあらず家族は」と断定しているのもその

証左ともいえる。



ただね、(これから先は、タメ口で書くけん、ごめんね。)

10首目の歌は、50首の掉尾の歌になっているけど「温泉のごとき家族か」

なんて、解説したらいかんとよ。短歌は、解説はいらんとよ。



そして、付け加えて更に言うと「湯冷めしないように」なんてことも余分

じゃあなかとね。

きついこと言って、ごめんね。




でも、でも、ほんとうに今回の「温泉」50首は、感動しました。

わたしは、わたし自身の息子のことを思いながら読んだので、泣いて

しまいました。感情移入し過ぎるのかも知れません。



他のかたの歌に触れられなくなってしまい、申し訳ないです。


 

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