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2017年4月

2017年4月24日 (月)

ソーセージを章魚(たこ)の形に…

さがしもの、というか、どこかで読んだ歌とか文章のフレーズを

どこだったかな、と探しまわることがよくある。



右側のページに載っていたとか、二段組みの下の方だったとか…

そんな記憶の断片がちらちらして、その探している言葉が見つからないと

次に移れない性分である。

このたびは、タイトルにある歌で、

ソーセージを蛸の形にしようとしたのだが、それを喜んでくれる(?)息子は

もうこの家にいない、というような短歌だった。

この歌がなぜ目にとまり、気にかかったのかといえば、わたしもまた似た

ような歌を作ろうとしたからでもある。(結果、作らなかったけど…)


そうして、一昼夜(勿論、睡眠はとったけど。)、探しまわった挙句、ようやく

あったわ。

      ソーセージを章魚(たこ)の形にせむとして踏みとどまりつ

      息子はゐない          宮本 永子 (「朔日」2017・4)


結句の「息子はゐない」に母親の心情がせつないほど伝わってくる。

息子が居た時は弁当作りに勤しんでいたのか?

ソーセージは定番とはいえ、お弁当には欠かせないよね。





ということで、一件落着で、気晴らしに園芸店に行って来た。

ブルーベリーの鉢植えがあり、白い可愛らしい花を付けていた。

買いたかったけど、かろうじて「踏みとどま」ったわ。

枯らしてしまいそうな予感がしたから……





2017年4月21日 (金)

『木俣修のうた百首鑑賞』 外塚 喬  現代短歌社選書

木俣修の薫陶を受けた一人として、著者なりの木俣修像を描き出す

ことができたら……と、「あとがき」に記す。

人口に膾炙した作品ではなく、著者自らがこころ惹かれた作品を選んで

鑑賞している。

木俣修が亡くなったのは、1983(昭和58)年、4月4日だった。

すでにあれから30数年の歳月が過ぎている。

著者が編集発行する歌誌「朔日」に、2014(平成26)年5月号より連載を

はじめ26回で完結した「木俣修のうた百首鑑賞」である。






木俣修といえば、『昭和短歌史』の人という、印象が強い。

その緻密な短歌史のお世話になった人も多いことだろう。

作品よりも論客としての印象が強いのも前記『昭和短歌史』の著書の

所以でもあろう。






この百首鑑賞本は、とても丁寧であり、100首鑑賞とはいえ、引用されて

いる歌は260首程に及ぶ。この1冊を読めば、木俣修の全体像が理解できる

書となっている。






100首の歌を巻頭に並べ、集中に引用された260首程の歌は巻末に一覧

出来る。そして、年譜も付いているのは研究者にとってもありがたいのでは。

    来むとしは一つまとめたき仕事ありそれ以外には思ひ及ばず

                             『昏々明々以後』

     掲出歌は、最後に残された九首のうちの一首である。修は、四月

    四日、慶應義塾大学病院において腎不全のために七十六歳の

    生涯を閉じている。亡くなってから家族が紙片に書き残していた歌を

    発見している。ーー略


著者の外塚自身は「一つまとめたき仕事」を成して、こころ安らかにいる

ことであろう。

木俣修の歌といえば、わたしは5月になると以下の歌が思い出される。






    リラの花卓(つくゑ)のうへに匂ふさへ五月(さつき)はかなし

    汝(なれ)に会はずして








                     2017年4月21日発行 2000円+税


    

 

2017年4月19日 (水)

ハナミヅキ&藤の花

久留米まで往還。

久留米の街は、真っ赤な久留米躑躅が花盛りだった。

本日も良い日和なり。




沿線の藤の花をたのしみ、咲きはじめたハナミヅキの花を仰ぐ。

ハナミヅキは好きな花の一つで、いずれの歌集にも収めているような

気もしないではないが、とりあえず、1997年刊行の歌集から。





     那珂川(なかがは)のむかうが博多はなみづき咲く西中洲水上公園

     ひるがへり咲く花水木いつさいのことは忘れてかうべをあげよ

     夕風にふるふるそよぐはなみづき眼裏(まなうら)にあり眠らむとして

                     『ひかり凪』(ながらみ書房刊) miyoko


福岡は、那珂川を挟んで博多区と福岡にわかれる。

JRには、福岡駅はなく、「博多駅」である。

福岡駅があるのは、西鉄電車の「福岡駅」で、天神が始発になる。

1首目の歌は、当時は水上公園に花水木があったのだが、数年前に行ったら

なくなっていた。







あ、そうそう、久留米市内の池町川の両岸の八重桜が見頃だった。

濃いピンクのさとざくら(関山)で、花びらが風に舞い、池町川に散ってゆく。

この川は街川なのだが水が澄んでいて、流れが透明である。

桜の樹下には、ところどころにベンチが置かれている。

散策をするのに打ってつけの場所である。

この八重桜は何本くらいあるのだろうか。八重桜の並木道だ。








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本日、特定健診結果報告書を受け取った。

「生活習慣の改善を心掛けて下さい」と2項目について記されていた。

やっぱりねぇ~と、慄いている。



「生活習慣の改善……」って、そもそも、わたしに「生活習慣」って、

あったの?

この「生活習慣」は、ワルイ「生活習慣」なのね。

                             〈改善〉できるのだろうか?

2017年4月18日 (火)

温泉へ

福岡を出て、高速道路を筑紫野から浮羽を通り、日田・玖珠を経て

別府まで行った。

新緑の山々を仰ぐと、点々と咲いているのはたぶん山桜?

そして、高速道路の沿道には八重桜の花が、なんともなまめかしく咲いている。

木々の若葉の色が、陽に映えて美しい。






お昼は「山水舘」へ。グレードアップした食事ということで堪能した。

昼食ののち、温泉へ。

時間が充分あるので「いでゆ坂」を散策。

地獄蒸し工房鉄輪に寄ったら1時間待ちとやらだった。

レジ横に売られていた「温泉たまご」2個入りを買う。

半熟でとっても美味しかった。





湯けむり通りを通ってホテルへ。

本日のお土産は、いも焼酎・黒麺仕込みの「のみちょれ」。

「のみちょれ」とは、大分弁で「ぐいっち飲み干しちょくれ」らしいのだが…






          あらたふと青葉若葉の日の光      芭蕉





『奥の細道をゆく』(KTC中央出版 2001年6月刊)で、ねじめ正一が旅人と

して、日光を訪れている。この句を以下のように鑑賞している。





          いい句ですよね。なんていうんだろうな。尊いことよ、という、

          その「日光」という言葉から連想する日の光が青葉若葉を

          照らし輝いている、あーもったいないもったいない、そんな

          感じですよね。--略




2017年4月16日 (日)

『万葉歌の世界』 久恒啓一監修 久恒啓子著 地研

「女流歌人が詠み解く ! 」の副題の付いた書で、タイトルの横に

「今に詠い継がれる最古の歌集」と添えられている。




副題の「詠み解く」は、「読み解く」では、ないだろうかと思いつつページを

捲る。著者は、『万葉集の庶民の歌』も以前出されている万葉集をライフ

ワークとして、研究している大分在住の「波濤」同人である。



本書の構成は以下のようになっている。


              〇遣新羅使人の歌

              〇中臣宅守と狭野茅上娘子との贈答歌

              〇山上憶良の歌

              〇防人の歌

              〇東歌

              〇作者未詳の歌






著者は参考にする学術書、研究書など買い集める傍ら、万葉歌の詠まれた

現地に実際足を運び調査している。現地に立つことによって気候や風土や

地理的条件を知り、彼らの悲しみや苦悩を想像している。






336ページのぎっしり字の詰まった(笑)書なので、まだ読みはじめたばかり

なのだが、とりあえず「山上憶良の歌」の章を読んでいるところ。





それで一つ気になったのは、巻末に「参考文献」は掲載しているのだが、

集中の引用文献の書名などが書かれていないことである。たとえば、

「梅花の宴」の章で、大庭みな子氏の言葉を3行に渡って引用している。

しかし、大庭みな子氏の書名も出版社もここには書かれていない。

(たぶん、大庭みな子氏の万葉関係の書だと思うが……)

これでは、どこからの引用かが読者には不明である。巻末の参考文献にも

掲載されていないのは、なぜなのだろう。


評論や評伝などで引用する場合は、出典を明らかにするのが大事だろう。

この書は、労作ゆえにそのことが惜しまれてならない。

そんなことを思いながら読み進めている。






                        2200円+税  2017年3月13日

    

 

2017年4月15日 (土)

映画 「LA LA LAND (ラ・ラ・ランド)」

アカデミー賞史上最多6部門受賞と誉れが高い映画に行ってきましたよ。

いやぁ、ミュージカルなんて田舎モンのわたしにはムリって思って

いたけど、なんのなんの感動しました。



セバスチャンを演ずるライアン・ゴズリングの表情がいい。

彼が哀愁たっぷりピアノを弾く姿に胸がせつなくなりました。




女優を目指すミア(エマ・ストーン)と売れないジャズピアニストのセバスチャン。

夢を叶えようと努力し忍耐するのだけど、夢を叶えるためにたいせつなものを

失うんだよね。





ひるがえって、歌人で名を成しているひとって、何かを失っているのだろうか?

あ~ぁ、こんなこと考えるから、あんたはダメなんだよ。

                               ハイ、失礼いたしました。

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只今、19時に福岡市に竜巻情報が発表されました。

20時まで要注意みたいです。

ゴロゴロとカミナリが鳴っとります。

2017年4月14日 (金)

『景徳鎮』 大辻隆弘歌集 砂子屋書房

2011年から4年間の作品、350余首を収める著者第8歌集。

『景徳鎮』とは、中国の青磁器産地の名前で、青ざめた白い肌地に

心惹かれたと「後記」に記す。







    何なすとなき冬の日を青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ河口まで来つ

    道のうへを風痺(ふうひ)のひとり歩みをり慎みてそのかたはらを過ぐ

    ハルシオンやめてデパスを選みたるそのいきさつを嬉々として言ふ

    小心と保身を彼に遺伝しておもへば一生(ひとよ)なかばも過ぎぬ

    この歌が載るときにもう父はゐないさう思ひつつ歌を直しゐつ

    平かになりにし父の胸に射すきのふ雨水(うすい)を過ぎたる陽ざし

    聴覚は終(つひ)に残ると言ひしかどそを確かめむ術(すべ)はもう無い

    ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき

    踊り場の壁に掛けたる絵が揺れてどこから風が来るか知らない

    葡萄酒に浸しし麺麭を肉と呼ぶかかる思想をわれは好まず






①首目の歌は、歌集巻頭の歌。「青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ」の

把握、この巻頭の歌は、著者の歌のありようを確と示している。抒情が

清明である。



②首目の歌は、恥ずかしながら「風痺(ふうひ)」がなんのことか一読、

 わからなかった。字を眺めているうちに、ひょっとして痛風?と思い

 あたった。

 (こういう難しい言葉を難なく遣う人には、高野公彦さん?がいる。)

③首目は、「嬉々として言ふ」のは、誰かということはこの歌では説明して

  いない。そこを誰と確定していないのがいいと思う。そういえば『歌壇』の

  5月号で 「4Wを伝えるのは短歌の目的ではないということ…」と、書き

 「 『読み』を信頼する」態度を説いていたのは、大辻さんだった。

④の歌は、土屋文明の「意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに

 拾ひあへるかも」が思い出された。




⑤首目の歌は、2013年3月に亡くなられた父君の、生前にその死を想定して

 詠まれたものだろう。その悲しみが美しい。



⑥首目の歌は、いちばん好きな?歌。「雨水(うすい)を過ぎたる」が効を奏し

 ているような。

⑦首目の歌は、確かめる術はないのだけど、とにかく最期まで耳元で声を

 掛けなさい、ということを看護師から言われたことを思い出した。母の臨終

 に、わたしたちは「おかあさん、がんばったねぇ」とねぎらい、「ありがとう、

 ありがとう」と告げたものだ。(わたくしごとながら…)



⑨首目、こういったなにげない歌もいいなぁ、と思う。




⑩首目は、歌集掉尾の歌。礼拝の場面でインティンクション?だろうか。

 「かかる思想」をわたしはよく理解していないのだが、結句の「われは

 好まず」の断定が気持ちいい。






歌集題もさることながら、満を持して出された歌集のような、力を感じる。

きっと好評を得るだろう。






                  2800円+税      2017年3月20日発行

 
  

2017年4月13日 (木)

『文脈力こそが知性である』齋藤孝 角川新書

書店で平積みされているのが目にとまった。

短歌をしていて、〈文脈〉というのをこのところよく考える。

而して、何か参考になるんじゃないかしらと購入。

ハウツー本といっていいのか、どうか。

齋藤孝の『語彙力こそが教養である』はベストセラーになったらしいが、

そちらは残念ながら読んでいない。







        ①知的であるということは、柔軟であること…

        ②知識の土台、感覚の共有がないと話が通じない…

        ③「違いを知る」ことが相手への理解のきっかけになります。

        ④言葉がもたらす影響について、客観性をもつこと、想像力を

         働かせることがとても大事…






まだまだあるけど…書けばきりがない。

ポイントがゴチックで表記されているので、読み易い。集中しやすいというか、

文章が平易で理解しやすいのが、うれしい。


        その場の状況を感知することができない、相手の感情に対する

        配慮もできない、ただ自分の主観的な視点だけで動いてしまう

        というのは、「子どもっぽい」ことです。







おお、なんと耳が痛いことか、

いや、読んでいるから、目か。

飛蚊症みたいに目の前に黒~い糸状のものがチラチラする…

状況を感知する力、なかなかムツカシイ。







                 840円+税  2017年2月10日 初版発行

 

2017年4月12日 (水)

『新潮』2017年4月号 角田光代「深い森」私的感想文

梯久美子の『狂うひと』の書評。

書評といえど、4ページもの長い論評ともいえる。

さすが~というか、まいったまいったと思いながら図書館で読了。

        書かなければ現実ではない、

        ということを裏返せば、書けば現実となる、

        書けば存在する、ということになる。







敏雄とミホの二人の動静をかように論破するあたり、ホントにわが角田さま

である。そして、敏雄とミホの「書くことについて」は以下のように考察して

いる。


       人生を棒に振ることも厭わず、

       他人を思いどおりにするまで、

       運命を変えるまで、

       二人にしかわからないことを続ける。

       つねに言葉を介在させて。






そして、梯の『狂うひと』については、





      私がもっとも胸打たれ、感動するのは、本書が何をも脅かさず、

      何をも損っていないことだ。


これって、評伝を書くときの〈心構え〉みたいにも思えてくる。

読めてよかった、よかったよ。



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第40回俳人協会新人賞を受賞した『山羊の角』の鎌田俊氏。

『俳句』4月号に掲載されていた。その中で注目したのは、角川春樹氏の

「自己の投影」という言葉。それを句作する上で鎌田氏は頭に置いているの

だろうか。

昭和54年生まれといえば、今年38歳。「河」所属。

「自分の心の年譜につながる句が出来のよしあしに拘らず愛着があった」

という角川源義氏の言葉もひいてある。




短歌の新人賞受賞の人たちとの違いを(方法論的に?)痛感した。

2017年4月11日 (火)

「泥舟」に乗って…

靄のかかった岸辺に一艘の泥舟が見える。

行き過ぎようとしたら舟のなかから声がする。





      「乗って行きなさい ! 」

      「わたし、これから、図書館へ行くので、ごめんなさい。」


      「浮き世は夢、ゆめを見られますよ。」


      「そういえば、このところ夢を見てないわ。」






と、いう流れになって、戯れにその「泥舟」に乗ることにした。

ところが、その「泥舟」には「湯舟」まで用意されていたのだ。






      

      呼びかえす泥のほとりのちちははの家にひと間を借りて暮らした

      八月の墓にやかんで持って行く水ゆれているのが手にわかる

      知らない海の話をすこし飽きるまで明日あなたの扶養をぬける

      手帳を決めて連絡先を書きうつすこれは訃報のゆく宛て先だ

                                    「夏のはたて」



      山茶花のほころぶ冬の庭にいて離れなければふるさとはない

      うちをでる? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ

      洗濯機に絡まっているこれはシャツこれはふられた夏に着ていた

      恋人でも家族でもない半裸だなルーム・シェアは長い合宿

      湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない

      雨が降りだしたみたいに郵便は届きふたつの宛て名を分ける

                                     「長い合宿」

山階 基 (やましな・もとい)の「湯舟泥舟(ゆぶね・どろふね)」のネット

リントより。








わたしは、夢を見ることができた。

はかない昼のゆめかもしれない。

しかし、山階 基の夢は確実に育ち、稔りを迎えるだろう。

いまは、その、山階 基の才能が、

                   あたら潰えぬことを、祈念するのみである。







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「花散らしの雨」があがって、星がたくさん見える。

そういえば、「花散らしの雨」の言葉をはじめて知ったのは、

道浦母都子歌集の『花やすらい』(角川短歌叢書 平成20年9月)だった。

       花散らしの雨は夜来の雨となり軽パラソルの縞柄濡らす





今夜はその雨もあがり、大きな大きな月が、のぼりつつある。

そうか、今夜は満月なのだ。



ちょっと空を仰いでご覧。月が綺麗ですよ。




      

2017年4月 9日 (日)

第55回 北九州芸術祭 短歌大会

本日9日、短歌大会は無事終了しました。

遠方からの参加者も多く、うれしいことでした。

わたしは11時より1時間の予定でお話をしました。

馬場あき子さんの『渾沌の鬱』、高野公彦さんの『無縫の海』、それから

春日真木子さん、橋本喜典さん、蒔田さくら子さんの総合誌の近作を引用

しながら「ことばの力」について、お話をした次第です。

短歌大会は午後1時からで、作品は134首集まっていました。

会場からも活発な意見が飛びかい、充実した短歌大会だったと思います。

終って、福岡からの出席の人たちと小倉城周辺をそぞろ歩きしました。

さくらの花が風で髪に、肩に、散りかかりとっても風情がありました。

今日は日曜日とあって、人出が多かったです。

さくらの見納めでしょう。



紫川に架かる小さな橋を渡って、タリーズコーヒーで T ラテを飲みました。

紫川の向こうには小倉城が見えます。川っぷちのさくらの花が綺麗で

眺めていると泣きたくなりました。

ことしの、この、さくらのことは、きっと、思い出に残ることでしょう。






帰宅して頂いてきた小さなブーケのお花を飾りました。

わたしの好きな「クリスマスローズ」と「わすれなぐさ」のお花でした。


みなさま、ありがとう。

ほんとうに、ありがとうございました。           miyoko

2017年4月 7日 (金)

『竹下しづの女・龍骨 句文集』 福岡市文学館選書 

平成28年11月9日〜12月11日にかけて福岡市文学館企画展は

「竹下しづの女と龍骨」だった。

その図録?ともいうべき書が、福岡市文学館選書として、ようやく刊行に

なった。

竹下しづの女の句文集は勿論だが、息子の龍骨の「成層圏」なども

収められており、貴重な一冊となっている。




竹下しづの女は、明治20年3月19日、福岡県行橋市に生まれ、

昭和26年8月30日没、享年64歳。

しづの女といえば必ず引き合いに出される俳句は、

        短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)






この書の「自句自解」のなかで次のように書いている。



        --略

        即ち此句に現われてる女は、現今の過渡期に半ば自覚し半ば

        旧習慣に捕えられて精神的にも肉体的にも物質的にも非常なる

        困惑を感ぜしめられ懊悩(おうのう)せしめられている中流の

        婦人の叫び=(心の)であります。--略

「須可捨焉乎」については、俳句だって最も現代的な語で表わして意の

迫ったところを表してもよいのだろうと断行したと。

漢文表記、字余り、破調、口語使用と大正9年の作品としては、斬新過ぎる。

それゆえに、当時の俳壇で様々な議論も起きたのだろう。でも「須可捨焉乎」

って、この書の解説の野中亮介氏も書いているけど、反語だと思う。





        --略

       「捨ててしまおうか、否、決して捨てることなどしない」そこには

       単なる否定を越えた強い現状肯定があります。

                [解説] 心高鳴り    野中 亮介(俳人)






折角なのでしづの女の俳句を『定本 竹下しづの女句文集』より。






               子をおもふ憶良の歌や蓬餅

               涼しさや帯も単衣も貰ひもの

               汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す

               悪妻の悪母の吾の年いそぐ

               苺ジャム男子はこれを食ふ可らず

               かたくなに日記を買はぬ女なり

               離れ棲む子の天遠し星祭る

               憂愁は貧富を超ゆる青葉木兎

               天に牽牛地に女居て糧を負ふ





早逝した夫のかわりに、仕事(図書館勤務)をし、5人の子どもを育て、

農地を耕し、母の看病に奮闘した竹下しづの女。

その俳句から、彼女の<生>のありようが伝わってくる。





そして、しづの女の次のことばはスゴイ。

芸術に進歩はない。あるのは変遷ばかりである。」(句文集の「あとがき」)





俳句をなさらないかたでも、読んでほしくなる一冊である。


                   2017年3月31日  福岡市文学館 発行

                   有限会社 海鳥社発売

                   1500円+税

 

 

 

        


    

 

2017年4月 6日 (木)

だるいせつないこわいさみしい

昨日から花粉症が最高潮?

ティッシュペーパーの函を抱えて部屋のなかをウロウロしている。

くしゃみ・鼻みず、もうどうしょうもないくらい。

頭のなかもぼあ~んとして思考力減退。(もともと思考力ないし…)





スギ花粉よりヒノキ花粉の方がひどいということを今年は思い知る。




気晴らしに某コンビニに行き、4日売り出しの「栽培キット」を2つ買ってくる。

「ミニトマト」と「育てるヤクミ(青シソ)」。

 

     ①土(圧縮培養土)を膨らませる

     ②タネをまく

     ③育てる

     ④収穫する

以上の行程、タネまき後約80日、開花後35日で色付き始めるらしいけど、

ホントに収穫できるのかしら?ミニトマト。

そんなこんなで「だるいせつないこわいさみしい」を紛らわしている。

2017年4月 4日 (火)

『うた燦燦』 道浦 母都子  幻戯書房

百人一首から現代まで、エッセイの中に180首の歌を収録している。



         Ⅰ うた彩々

         Ⅱ ふり返り

         Ⅲ 口ずさみ「百人一首」

         Ⅳ あこがれ


4つの章で構成されており、Ⅰの「うた彩々」では、春・夏・秋・冬と四季に

わたっての歌を引用している。その中の秋の章から1首を。





        海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった

                          服部 真里子『行け広野へと』から

 

        --略

        「海を見よ」の初句の強さから、結句まで一気に打ち下ろして

        いくような一首。「僕」は、ひょっとすると、海のことなのかもしれ

        ない。平らかで、たよりない、でも、かたちを持って存在する海。

        海の不安定性を呈示し、そこに、自分を重ねているのだろうか。

        -ーー略

道浦母都子の鑑賞がたのしい。




そして、Ⅱ章では、プライベートなことをさらりと綴っている。

『無援の抒情』により全共闘運動を象徴する歌人となってしまった著者の

心根が素直に語られている。





わたしはⅢ章の百人一首の鑑賞が好きだ。

固くなくて、読み易く、理解しやすい。自身に引きつけて鑑賞しているところ

など著者らしいと思いつつ読んだ。

                       2017年4月17日  2400円+税







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春の暖かな日差しを受け、天地万物が清らかで、生き生きするころ。

本日は「清明(せいめい)」であった。

福岡の桜も今日あたりが見頃だったようで、また明日から天気は下り坂。

ただいま、空には上弦の月が朧に浮かんでいる。

2017年4月 2日 (日)

『風に献ず』 福島泰樹歌集 国文社

昭和51年7月7日に刊行された歌集で扉には、

 

       風に献ず 自刃せる村上一郎氏に 


と、記されている。

       弥生三月なにを悲しむ汽車は野に医者は花見にゆきしとぞ聞く

       椿落ちおれはせつなき歌つくる いざ鎌倉へゆくこともなし

       絢爛と散りゆくものをあわれめば四月自刃の風の悲鳴よ

       花吹雪 鬱金薄墨鬱血の林を抜けてゆきたるや君

       典雅なる人にしあらばもしや君は霞食みつつ赴きしかとも

       その人のやさしさゆえに昂りて「志気と感傷」薄明に閉ず

 

1ページ1首組の短歌。作者の声が琅琅と響きわたるようでもある。



村上一郎氏の墓碑に刻まれた「風」の一文字。

そして、村上一郎氏の妻君の長谷えみ子さんの歌集が『風に伝へむ』で

あった。




         

 

2017年4月 1日 (土)

未来福岡歌会(花見歌会)

本日、4月1日の福岡のお天気は晴れのち曇り。

温度は15/7  雨は大丈夫と思いますが40%の数字が出ています。




地禄神社の桜情報は、五分咲きくらい。

昨日の雨で地面が弛んでいますので、本日は室内の窓際の方に

卓を並べて花見をする予定。

出席者13名。詠草のみ2名となっています。

ささやかながら準備をしていますので、たのしみにしていてください。

みなさま、お待ちしています。(A・M 9 : 00)





              地禄神社の桜は咲くや 遠回りなれど帰りに立ち寄りあふぐ

                                       miyoko

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