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2017年4月14日 (金)

『景徳鎮』 大辻隆弘歌集 砂子屋書房

2011年から4年間の作品、350余首を収める著者第8歌集。

『景徳鎮』とは、中国の青磁器産地の名前で、青ざめた白い肌地に

心惹かれたと「後記」に記す。







    何なすとなき冬の日を青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ河口まで来つ

    道のうへを風痺(ふうひ)のひとり歩みをり慎みてそのかたはらを過ぐ

    ハルシオンやめてデパスを選みたるそのいきさつを嬉々として言ふ

    小心と保身を彼に遺伝しておもへば一生(ひとよ)なかばも過ぎぬ

    この歌が載るときにもう父はゐないさう思ひつつ歌を直しゐつ

    平かになりにし父の胸に射すきのふ雨水(うすい)を過ぎたる陽ざし

    聴覚は終(つひ)に残ると言ひしかどそを確かめむ術(すべ)はもう無い

    ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき

    踊り場の壁に掛けたる絵が揺れてどこから風が来るか知らない

    葡萄酒に浸しし麺麭を肉と呼ぶかかる思想をわれは好まず






①首目の歌は、歌集巻頭の歌。「青鈍(あをにび)のひかりにゆがむ」の

把握、この巻頭の歌は、著者の歌のありようを確と示している。抒情が

清明である。



②首目の歌は、恥ずかしながら「風痺(ふうひ)」がなんのことか一読、

 わからなかった。字を眺めているうちに、ひょっとして痛風?と思い

 あたった。

 (こういう難しい言葉を難なく遣う人には、高野公彦さん?がいる。)

③首目は、「嬉々として言ふ」のは、誰かということはこの歌では説明して

  いない。そこを誰と確定していないのがいいと思う。そういえば『歌壇』の

  5月号で 「4Wを伝えるのは短歌の目的ではないということ…」と、書き

 「 『読み』を信頼する」態度を説いていたのは、大辻さんだった。

④の歌は、土屋文明の「意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに

 拾ひあへるかも」が思い出された。




⑤首目の歌は、2013年3月に亡くなられた父君の、生前にその死を想定して

 詠まれたものだろう。その悲しみが美しい。



⑥首目の歌は、いちばん好きな?歌。「雨水(うすい)を過ぎたる」が効を奏し

 ているような。

⑦首目の歌は、確かめる術はないのだけど、とにかく最期まで耳元で声を

 掛けなさい、ということを看護師から言われたことを思い出した。母の臨終

 に、わたしたちは「おかあさん、がんばったねぇ」とねぎらい、「ありがとう、

 ありがとう」と告げたものだ。(わたくしごとながら…)



⑨首目、こういったなにげない歌もいいなぁ、と思う。




⑩首目は、歌集掉尾の歌。礼拝の場面でインティンクション?だろうか。

 「かかる思想」をわたしはよく理解していないのだが、結句の「われは

 好まず」の断定が気持ちいい。






歌集題もさることながら、満を持して出された歌集のような、力を感じる。

きっと好評を得るだろう。






                  2800円+税      2017年3月20日発行

 
  

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コメント

お読みいただきありがとうございました。

しっとりした、とても良い歌集でした。

これから、皆さまがたの批評がたのしみです。

期待しています。            miyoko

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