福島泰樹の第30歌集が出た。
本歌集は2016年冬から2017年夏までの作品から選び、310余首を収めて
いる。
第一歌集の『バリケード・一九六六年二月』が刊行されたのは、1969年の
秋だった。以来48年、泰樹の激走はとどまることはない。
御徒町大原病院ぼくを生んだ同じベッドで母ゆきたまう
昭和十九年三月 ぼくは祖母に抱かれ遺骸の母を見ていたのだろう
幼年の目が俯瞰する風景は地平線まで廃墟であった
歳月の彼方にいまも燃えている曼殊沙華よりあかく切なく
こみどりの冬のコートよ渋谷駅ホームに佇ちているヒヤシンス
生きているうちにおのれの墓を建つ『寺山修司全歌集』はも
祈るように君は手帳を胸にあて書いていたっけ歳月は風
高橋和巳寺山修司春日井建、清水昶も五月に逝けり
カーテンは睫毛のように擦(こす)られて涙を流しているのであった
この俺の在所を問わば御徒町のガードに点る赤い灯である
8月30日、福岡市であった「短歌絶叫」コンサート。
K塾福岡校の文化講演会でのコンサート。
あいにくこの日私は、福岡に、日本に、いなかった。よってこのコンサートの
ことは新聞紙上で写真と共に後日拝見した。(「ダンス」が聴きたかったよ。)
死者に対する記憶を大事にし、その〈生と死〉を歌い上げる福島泰樹の
姿勢は変わることがない。
このたびの第30歌集も過ぎた歳月をいとおしみ、その記憶を克明に紡ぎ
出している。
①首目②首目の実母の死、18年3月に生まれた泰樹が満1歳になるか
ならないくらいで覚えている筈はないと思うのだが、これは、想像の
賜物「見ていただろう」なのだ。実母が死んだ悲しみをかなしみとして
受け止めることさえできないみどり子の〈悲しみ〉を思い遣っている。
③首目は、昭和20年3月の東京大空襲であろうか。その風景は「地平線
まで廃墟であった」のだ。
⑤首目の歌には詞書が付いている。「その日からきみみあたらぬ仏文の
二月の花といえヒヤシンス」
⑦首目の詞書は「立松和平逝きて七年」とある。
ふたりの交情の篤さは、たびたびその文章のなかで知った。
⑨首目には「北村太郎へ」と詞書が付いている。
『荒地の恋』の北村太郎も逝ってしまった。享年69歳だった。
文章といえば『短歌往来』(ながらみ書房)で連載している「時言・茫漠山
日誌より」が面白い。面白いというよりそのただならぬ多忙ぶりに息を
ひそめつつ見守っている(笑)。11月号では187回となっているのでこの
連載は15年以上続いている計算になる。
短歌絶叫コンサートは1500回以上のステージを披露している。
そして、今もなお毎月10日には吉祥寺曼荼羅でのステージも開いて
いるのだろう。
「どんどん悪い時代になってきている。だからこそ死者の言葉に耳を傾け
ないといけない」と、新聞のインタビューに語られていたのが印象深い。
ーー略
死者は死んではいない。死者たちが紡いできた記憶と夢の
再生 ! 歌がそれを可能にするのだ。
『下谷風煙録』 跋 福島泰樹
2017年10月30日 初版発行 2700円+税

10時、N さんより珍しく電話あり。
とりたてて用もないのに、暢気な話を際限もなく(笑)する。
息子が結婚していない。(する気がない。)
従って孫もいない。(原因がないのだから、結果は望めない。)
というお互いの共通項に安心(?) したり、慰め合ったり、傷を舐め合ったり(笑)
考えると、なんと、非生産的な話を延々としていたのだろう。