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2018年9月

2018年9月26日 (水)

テレビ NHKスペシャル「樹木希林を生きる」

PM7:30〜8:45 のNHKスペシャルを視聴。

長期密着取材の樹木希林さんのドキュメンタリーだった。

癌で余命宣告されながらも、粛々と映画の撮影に取り組む日々。

みごととしかいいようがないのだけど、希林さんにとっては「ふつう」の

ことかも知れない。

ごく自然体でこの番組に応じているのだろうが、視聴者としては感情移入

してしまう。


車を自ら運転して木寺ディレクターを送り迎えしている。

車を運転しながら発する言葉はどれも「樹木希林」のことばだった。

「若い頃はケンカ早くってね」 「仕事がなくなるかもと思った」


映画「万引き家族」のミーティングで、是枝監督に「他人をずるずると家に

入り込ませる」設定に納得がいかないと疑義を呈していた希林さん。

その精神の健康さ ? 。是枝監督は希林さんの言葉で脚本を辻褄の合う

ように、少しカバーしている。


希林さんはマネージャ―も付けていない。(そういえば、フジコ・ヘミングも

マネージャ―を持たない主義だった。)





レストランに呼び出された木寺ディレクターに見せた癌の転移の写真。

これを出せば、この長期密着取材も少しは見せ場があるでしょ ?

                                      (文言が違っていたらごめんなさい。)

ここまで番組のことを思い遣る心根。


人生の晩年を、死に際を「未熟なまんまで終わるもんじゃないかな」と、

サラリと言う。


最後の後ろ姿、歩み去る際のことばが「電車がなくなるよ。」(たぶん、

木寺ディレクターに掛けた言葉 ? ) そういう気配りのする人だった

希林さんは。




この番組の再放送があったら是非観てほしい。

再再放送があってもいい。

みんな何かを受け取ると思う。

〈生きるとは〉とか……

2018年9月25日 (火)

『編集者の短歌史』  及川隆彦   はる書房  

「短歌往来」の現・編集兼発行人である著者の編集者体験記。

本書は、1977年から1984年にわたって編集した総合誌「短歌現代」での

さまざまな経緯を綴ったものである。


読み進めながら、多くの方々が鬼籍に入られていることを度々思う。

8年に及ぶ編集者としての日々に会った歌人・詩人・作家に寄せる

エピソードに興味が尽きない。


読みはじめたら、途中でやめることが出来ず読了。

(現実逃避みたいに読書に溺れている。)



溺れているといえば「九段花見のエピソード」など、不謹慎ながら笑って

しまった。

石田さんがお堀に落ちたこの章は「短歌往来」に掲載した時も可笑し

かったが、この石田さんが「組合結成」を働きかけ、「断交」まで決行

したのか。


石田さんの筆名は〇〇〇さんで「未来」にも在籍していた筈。

そういえば、むか〜し、むか〜し、石田比呂志さんと殴り合いのケンカした

のも彼だったような  ? 。違うかな。小中英之さんもその場にいて、たの

しかったな、あの夜は。ケンカというよりじゃれあい、だから。


谷川健一氏が、編集者体験のことを書くように勧めてくださったのも

頷ける。貴重な体験であり、歌人や詩人、作家のエピソードは書き残して

おくことに意義があると思う。


第2弾は、「短歌往来」時代のことを書いてほしい。

1985年から現在までを。

でも、まだ早いかな。現役だし…


                         2000円+税

                         2018年9月8日


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昨夜の「中秋の名月」は、当地は曇り空で残念。

しかし、夜中(11:30頃) には、雲間からおぼろにみえた。

夕顔が3つ咲いていた。

 

2018年9月24日 (月)

歌集『何の扉か』 春日真木子  角川書店

「(略)九十歳を九〇歳と記せば十〇度目の零からのあらたな出発です。‥」

と、あとがきに記す著者の第十三歌集。

読みながら、背筋が真っすぐ伸びるような、いえ背筋を伸ばさないと

いけないような、著者の気骨がひしひしと伝わってくる一集である。

     潔く辞めむと言ふ父潔(いさぎ)わるく続けよと宣らす尾上柴舟

     さくら散る時間の光を曳きて散る 何の扉か開くやうなる

     昼月の浮力をわれに引き寄せむ杖ふりあげて今日の背伸びは

     花桃のひらきてわれは九〇歳 ああ零(ぜろ)からの出発の春

     投稿歌の「蝉」は自由に鳴かすべし「蝉」より「蟬」へ直しつづけつ

     雨か霰もしくは雪といふ予報されば出掛けむ槍と死降らねば

     はさはさと春の羽搏き鳩寿なるわが新春の胸を打つなり

     治療室のベッドは高くのぼれざり然(さ)らば背面跳びの術(すべ)にて

     法案の強行採択戦(をのの)きて坐る丸椅子 あ、背凭れがない

     降りたちて雀は歩く二歩三歩芋虫まるくころがしながら


こうして、書きうつしながらも、己の弱さや甘えが恥ずかしくなる。

3首目、「杖ふりあげて」って、凄くない? 。いつだったか歌会で Tさんが

「杖ふりあげて蜘蛛の巣払う」っていう歌を出していたのだけど、いっぺんに

Tさんが好きになった。おうちの玄関先の木々に蜘蛛が巣を張って邪魔に

なって通れない。手に持っていた杖で蜘蛛の巣を払ったのだって。Tさんは

やむにやまれず「杖ふりあげて」なのだけど、春日さんの「杖ふりあげて」は

健康志向だ。


4首目、「零(ぜろ)からの出発の春」なんて、うたえるのも気概。

そして、九十を「鳩寿」とうたう7首目、なるほど「キュウジュ」だ。この歌は

『短歌』の2017年の1月号に掲載されていた歌でしっかり覚えている。

なぜって、昨年の4月、北九州芸術祭短歌大会で「鳩寿の胸」の一連について

講演したからだ。この年の1月号は『歌壇』に8首、『現代短歌』に25首、そして

『短歌』に10首掲載。なんとまぁ精力的な90歳かと畏れいったものだ。


5首目、わたしも「蝉」と表記した歌があると、注意する。「蝉」は、口を二つ

付けてください、と。春日さんの「自由に鳴かすべし」のユーモアに笑って

しまった。


6首目は、槍か死が降らなければ「雨」だろうが「霰」だろうが「雪」だろうが、

出掛けるという気丈さが頼もしい。


8首目の「背面跳びの術(すべ)」も、おそろしい(笑)。わたしにはできない。

なんて、甘えてはいけないんだ。



9首目、10首目は何より好き。

「あ、背凭れがない」とか、「芋虫まるくころがしながら」なんて、そのまんま

だと思うけど、それが凡人には歌に出来ない。




そして、そして、掉尾の「長歌」、これが実にいい。

父君の「松田常憲」を偲び、丈高く、情感を込めて吟じている。

    反歌   ひと夏を父の食みにし鰻(うなぎ)らよ長歌百首に

          光添へませ




心が折れそうなひと、わたし高齢だからなんて弱音を吐くひとほど

この『何の扉か』を読んでほしい。

読めば、きっと、立ち直れる。


わたしも泣き言いうのは、やめなくちゃ。


                         2018年9月10日 初版発行

                         2600円+税

 

2018年9月19日 (水)

「まいにち文化祭 2018」 久留米毎日文化教室

恒例の1年に1度の文化祭がやって来ます。

この日のために文化教室の受講生はたのしみながら頑張ってきました。

概要は以下のようになっています。

どうぞ、みなさまお出掛けください。

      2018年9月24日(月・祝)  毎日文化会館

                      所在地  久留米市東町31-34

                                               (アクセス 西鉄久留米駅より徒歩7分)
      (入場無料)

      11:00〜16:00

      特設ステージ     3F   多目的室

      作品展示     4F     中教室

      茶道お点前   4F     和室


4Fの作品展示では、短歌教室の受講生の短冊・色紙なども展示

しています。そして、合同歌集「ちっご川」ができあがりましたので、

無料で配布いたします。ただし、数に限りがありますので、欲しい

かたはお早目にどうぞ。

薄い冊子ですが、受講生の作品とエッセイを掲載しています。

わたくしも参加しています。



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車中より見る沿線には、真っ赤な彼岸花が咲いている。

みんなこの花を忌(いみ)きらうけど、わたしは好き。


    自己愛をつらぬきたまへ曼珠沙華     miyoko





まいとし、蕾をたくさん摘んで帰り、玄関の大きな花瓶に投げ入れを

するのだけど、ことしは余力(笑)がない。身辺が落ち着かないのは

なんなのか。(とりあえず、11月末までガンバル。)

筑後平野の稲穂が色づきはじめ、空の青さ高さに「秋だなぁ」と

感じている。

ことしの、この秋を、堪能したいものだが。

 

2018年9月18日 (火)

季節の便り ⑭  新生姜の甘酢漬け

長〜い葉っぱのついた新生姜を放生会(ほうじょうや)で買って来た。

持って帰るのが恥ずかしいくらい長い葉っぱがついている。

縁起物 ?  だから、切って持って帰ることもできず…

露店の人は今年はみんなこんなんですよ、と言う。

天気のせいでこんなに長く伸びてしまったんだ。

新生姜は放生会の名物だもんね。


さっそく生姜を甘酢漬けにする。

先ず、広口瓶を熱湯消毒して冷ましておく。

①鍋に水と昆布を入れて、沸騰したら酢と砂糖と塩を加えて、

 ひと煮立ちさせ、冷ましておく。(この調味料の分量はお好みで。)

②一方、生姜は薄くスライスして熱湯で1分ほど茹でる。

 茹でたのを笊に広げ、塩を少し振る。出てきた水分をしっかり絞る。

③広口瓶に①の液と②の茹でて絞った生姜を入れて、冷蔵庫の中へ。

    3日もしたら美味しい「生姜の甘酢漬け」が出来上がる。



そして、大事に持って帰った葉っぱは、

綺麗に洗って、30センチほどの長さに揃えて切り、輪ゴムで縛り、お風呂の

湯舟の中へ。5月の菖蒲湯みたいにする。

耳学問(笑)だけど、からだにいいらしい。

あの生姜の葉っぱが、お風呂の中でしゃんと生き返ったみたいに

みずみずしくなっとんしゃった。

わたしはと言えば……

2018年9月17日 (月)

歌集 『谿泉』  玉井 清弘    角川書店

前歌集『屋嶋』にて、詩歌文学館賞と迢空賞を受賞した玉井清弘さんの

第九歌集。

玉井さんといえば「四国遍路のひと」というイメージである。

このたびの歌集では、四国八十八ヶ所歩き遍路の三度目にかかっていた

時期とか。三度目に挑戦している。そしてその三度目を結願。

四度目を歩き始めている。


わたしの受講生にも「歩き遍路」をしている人がいる。リピーターの一人

でもある。従ってそのかたの作る歌は遍路の歌が多い。

それはともかく玉井さんの歌を紹介したい。


     剪定に切られし枝に咲ける桐ほしくてならず遍路の途中

     若きらの働きている午後三時ごめんと言いてわれは晩酌

     ごみなるか服のほつれかわからねばひっぱりて見つずるずると糸

     白雲木咲けるを見よと呼びくれき その人逝きて季節また来ぬ

     おんかかかび唱えてめくれと言われたり地蔵菩薩の前掛けめくる

     頭(ず)の近く目白とびかいその上を山鳩のゆきその上みさご

     握りたる手塩の味のもどりくるおにぎりひらく萩のもとにて

     早口にしゃべりいるとき伊予弁のついとこぼれぬ風土の力

     梅雨どきの淡竹のうまし根元よく穂先もよろし酒の肴に

     ぷくぷくのうがいできるに〇つけぬ出来ぬ日そこに来ているらしい



もっともっと上げたい歌が多い。

歩き遍路の醍醐味にどっぷりつかりながらの日々。


1首目では、遍路の途中では桐の花を持っては歩けまい。

2首目は、羨ましいような午後三時を過ごしている。(「ごめん」では

      すまないな。(笑))

3首目、なんとも可笑しい。

4首目の「白雲木」は、エゴの花に似ている白い花。満開の時、

    遠くから見ると、白雲のように見えることから命名されたらしい。

5首目の「おんかかかび」は、お地蔵さまに真言で呼びかける時の言葉。

    この歌の詞書「紅葉の候にと残していた札所を巡拝し、四国八十

    八ヶ所歩き遍路三度目結願。」と記されている。

7首目、結句の「萩のもとにて」がいい。

8首目、まさに「風土の力」。わたしも此処、博多に50年以上暮らすとついつい

     博多弁が出てしまうのも「風土の力」かな。

9首目、「淡竹」は旨い。酒の肴になんて、いいねぇ。

     本歌集には、お酒の銘柄もあれやこれやと出てくるし、こんな

     暮らしが出来るのも健康あってのもの。

10首目、「ぷくぷくのうがい」ができるのも丈夫な歯があればこそ。



集中、後期高齢者なんていう歌もあったようだが、とてもいい暮らしかたを

している。だから、歌が澄んでいる。

『谿泉(けいせん)』 とは、谷間からわき出る水のこと。

その水のような一集であった。

そういえば、玉井さんは新仮名遣い。

これもこだわりがあるのだと思う。

この歌集は、ゼッタイ「歩き遍路」のKさんにに読んで貰いたい。


                           2600円+税

                           2018年9月14日 初版発行

2018年9月16日 (日)

歌集『戻れない旅』 生田亜々子   現代短歌社

「第5回現代短歌社賞」を受賞した生田亜々子の第一歌集。

この賞のご褒美は歌集を出してくれることだったか。

受賞作品と同じタイトルの歌集題となっている。

 

      
      流れとは逆に光は運ばれて汽水の川に潮上がり来る

      真夜中の静けさの中手を見ればさみしいこれは母と同じ手

      朝食にりんごを剥いて親子とはなりたくてなるものではなくて

      乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある

      子を探し子の中へ行き自らの中の子供をそっと放した

      捨てられぬ記憶を持ったわたくしのなにかが夜の底まで沈む

      水の音立てては泣いた日もあって収拾のつかない子供だった

      簡単に消去できない傷があり嗚咽が漏れるのならばそこから

      動物はお昼ごはんを食べながら孤独だなんて思っちゃいない

      ねなしぐさ根の絡まってふるさとはいつも今居る場所と定める



 

結婚して子どもがいて、それでもなお埋まらないような何か。

それは直接的にはうたわれていない。

うたわれていないのだが、亜々子さんには何かとても大きな深い〈傷〉が

あるような気がしてならない。

〈傷〉などと、簡単に言ってしまいたくないのだが、ものごころつくか、つかない

頃の記憶が心の奥の奥の方に溶けないで残っているのだ。




みどりごのお尻に蒙古斑がある。

その蒙古斑は成長するにつれて消えてゆくのだが、亜々子さんは、

その蒙古斑を抱えたまま大人になってしまった。

いや、違う。大人になって文学の世界に入って、その蒙古斑が

ぶりかえしたのだ ?



抒情的な香りのする歌集だった。

近代短歌の香りでもなく、現代の若者風でもなく、ほどよい味つけの

歌が並んでいる。何よりぺダンチックな言い回しがないのが好ましい。

そして、アクロバット的な技法もなく、読んでいてもつっかえない。




そういえば、9月のはじめだったか、西日本新聞の「随筆喫茶」に

亜々子さんの「私どこの人 ? 」が掲載されていた。

その中で「子供の頃の記憶」のことが書かれていた。

ハードな外遊びが好きな子どもだったらしいが、その胸の裡には

きっと周りの子どもたちの知らないようなものを抱えていたのかも知れない、

などと、想像(妄想 ? )している。

第一歌集、ご出版、おめでとう happy01


             栞  

               リアリズムでないリアリストの人    伊藤一彦

               夏の野原を歩くために          大森静佳

               ラムスデン現象のように         沖ななも

                                 2500円+税

                                 2018年8月27日

2018年9月15日 (土)

『喜屋武岬』 當間實光歌集  ながらみ書房

結社「未来」の道浦母都子選歌欄に所属の第二歌集。

表紙絵は角田守氏の「喜屋武岬」。

エメラルドグリーンの海の色が美しい。


     健児之塔の三人の像に対きあいし君と吾との高三の夏

     海に来て鮫の仲間になりたくてこんなに威張って生きていいのか

     沖縄が蹂躙されるそのたびに血が逆流すとぞ姜尚中氏は

     対馬丸の油まみれの児ら救われて箝口令の敷かれしとぞ言う

     恋をして妻を娶りて子を生して孫見るまでの互(かたみ)の五十年

     おむすびの三個と二個を包み終え妻と出でゆく辺野古集会

     魂の難民にこそなるなかれオキナワのことは沖縄が決める

     原発が沖縄に無きは米軍の基地ある故と小高賢のうた

     平和日本と口が裂けても言うまいぞ辺野古来て見よ裂かれた海を

     命あるものは必ず逝くのです菫タンポポまいまいつぶり


わたしが多くを語るまい。

歌を味わってほしい。

歌集を読んでほしい。

折りしも「沖縄知事選告示」の文字が新聞に……

                              2700円+税

                              2018年7月20日

 

2018年9月11日 (火)

歌集『冒険者たち』 ユキノ進  書肆侃侃房

『短歌』9月号の「歌集歌書を読む」で取り上げた歌集ながら、

印象深かったので、本日の「陽だまり短歌会」のテキストに使った。


この会の男性は3名揃ってリタイア組なので、どうかなぁと思いつつも

いやリタイア組だからこそ、距離を置いて醒めた眼で読んでくれるかも

知れないと期待しつつ。



     今すぐに飛んで行きますとクレームの電話を切って翼を捜す

     往来で携帯越しに詫びているおれを誰かがビルから見ている

     なだらかな坂のぼり切れば海が見える少し遅れて波音がする

     左岸から右岸に通う右岸から左岸に帰るひと日が終わる

     タクシーがみえなくなるまでお辞儀するおれの背中に風が吹いてる

     ゴーグルを着けたまんまで姉弟は素麺を食べるプールの午後に

     九階のベランダ越しの三人の影が大きく手を振っている

     それはもう愛だよ、愛とか言いながらお湯割りの梅をぐずぐず崩す

     ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり

     船乗りになりたかったな。コピー機が灯台のようにひかりを送る



いずれの歌もわかりやすい。

作者の訴えたいことがすんなり読み手に届く。

たぶん、誤読する余地のないように表現されている。

1首目、2首目などは、ドラマのワンシーンとでもいえそうな切り取り方だ。

1首目の「翼を捜す」なんて、ふつうは表現しないよね。(評者Aの声)

     「だから、そこがいいとも言える」(評者Bの声)

2首目は、刑事の張り込みの場面を連想したり…

      視線を感じて、ふと上を見ると、「誰かが見ている」

5首目もドラマなどでよくあるシーン。深々とお辞儀をして得意先の人や

   おエライさんを見送るんだよね。


3首目の「少し遅れて波音がする」は、うまいなぁと思う。

     そう思いつつ、なんだか既視感もある。たとえば花火の音とか、

     カミナリの音とか「少し遅れて」って、つかいがち ?


皆さんが反応したのは、9首目。

     そうなんですよ。病院などでも色わけしているんですよ、と言う(評者 C )

    名札を色分けしていたり…

     昔は看護婦さんで婦長の帽子などは線が多かった。(評者 D)

      しかしなぁ、派遣とか出向とか色分けされたら、たまらん(笑)(評者 E)




いやはや喧々諤々。(なんて、冗談です。わたしの一人芝居。)

わたしは、4首目のような極めてオーソドックスな歌が好き。

作者の言いたいことが、直截的でなく、よくよく読めば伝わってくるような。

サラリーマンの悲哀 ?  は、むしろこんな何気ないところに醸し出されている。


家族をうたった6首目、7首目。

実にいい。とてもいい。

やっぱり、家族を愛する歌はいい。


「自分の会ったことのない遠い誰か、未来の読者の心に届くといいな、」と

あとがきに書いていたけど、ほら、現にこうして会ったこともない、わたしや

わたしの歌仲間に届きましたよ。「未来の読者」では、ないけど。

                           1700円+税

                           2018年4月16日 第一刷発行

 


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このところ毎夕、ゆうがおの花が咲く。

二つ、三つと、ゆんわり開いていくのを見ているのは楽しい。


そして、朝顔の花が終わってしまったと思っていたのに、9月に入って

大きな花が毎朝開く。その朝顔を毎朝、激写している。

ピンク色に白い筋の入った「曜白朝顔」。

あまりに見事なので、誰かれ構わず送りつける。(困ったものだ。)


明日は某所に取材。

たのしみだけど、今週も3日続けてお出掛け。

2018年9月10日 (月)

歌集『塩の行進』 春日いづみ  現代短歌社

2014年刊行の『八月の耳』につづく第4歌集。

著者は「水甕」副代表。

    「ネット銀行レモン支店」にタッチする葉つぱのお金を送る心地に

    妻にして母祖母娘嫁姑 年の始めのわが変化身

    踊り場にきんぴら受け取りポトフ置くいつからともなき沈黙交易

    くれなゐの非常ボタンが母の辺の三面鏡に三つ映れり

    年始客の四十人を賄ひしわれにやうやく女正月

    立ち止まり暮し見直す時間欲し積み上ぐる本崩れ落ちたり

    電話切り夕べに濯ぐ右の耳聴聞僧となりて半時

    伏し目なる阿弥陀如来と向き合へる卒寿の母の目力つよし

    四半世紀子らより長く暮らしたりけふさむざむし空つぽの膝

    三月の春のあけぼの杖を手にガンジーの発ちし「塩の行進」


読後、爽やかな風が吹き渡る心地がした。

その爽やかさとは、「しっかり生きている」ひとへの畏敬のまなざしでもある。


3首目、受け取るのが「きんぴら」で、置くのが「ポトフ」だから、おのずと

生活様式、食の好み、世代差などが伝わってくる。二世帯住宅などでは、

相手の生活にあまり立ち入らないことを基本にしているのだろう。

この相手への思い遣りがおのずと料理を運ぶ行動にうかがえる。


5首目を読むと、わたしには真似できない思う。二人だけのお節料理

だって、簡略したいくらいなのだから。


6首目は共感。立ち止まって暮らしを見つめ直し、自分を見つめ直す時間が

必要なのだ。積み上げ、積み上げてゆく本の嵩。本の方も悲鳴をあげてい

る。


7首目には笑ってしまった。きっと30分間をただただ電話相手の聞き役を

していたのだ。「夕べに濯ぐ右の耳」に、作者の遣る方無い思いがくみ

取れる。


9首目は、愛猫との暮らしを偲んでいる。もう、この膝に来る猫はいない。


家族を愛し、生活を大事にしている人の歌。

それはとりもなおさず、自分を大事にしていることにも繋がるような

気がしてならない。

                             2700円+税

                             2018年8月27日

2018年9月 7日 (金)

怒涛の1週間

北海道の震度7の地震におののきながら、自身のほんのちいさな

「暦日」を記すのが躊躇われる。


この1週間はわたしにとって「怒涛」のような日々でもあった。

日々でもあったのだが、まだ終わってはいない。

今日もこれから出掛けなければならない。

備忘のために記しておく。

4日、日本歌人クラブの投稿歌の整理のために、北九州へ。

    11:00集合。7名で校正作業。

 

5日、久留米へ。終わって西鉄急行電車で福岡天神のアクロスへ。

   日本歌人クラブの時に配布する福岡の観光案内のパンフレットを

   調達するため。

   ここでは大量のパンフレットは無理ということで、バスで移動。

   大名の「福岡観光コンベンションビュー」へ。

   紙質もいいしカラーですてきな観光案内の冊子が2部。しかし、

   数が多いと、とにかく重い。(お米の5キロ袋みたいな(笑))

   係のかたが宅急便で送った方がいいですよ、というのを断る。

   宅急便だと経費がかかるし、緊縮財政で頑張っているわたしとしては

   持って帰りたい。とても気遣いをしてくださったMさん(?)が、地下鉄の

   改札口まで運んでくれる。(ありがとうございました。無事、帰宅です。)






6日、KKRホテル博多で打ち合わせ。13:30

       以前の担当だったWさんが部署を変わられたのでDさんと打ち合わせ。

   一つ一つチェックしてゆく。

   前途多難だが、なんとか開催にこぎつけたい。

   (皆さま、日本歌人クラブ第22回全九州短歌大会、11月26日(月)

    お待ちしています。当日はシンポジウムもあります。

    コーディネーター・中川佐和子。パネラー・ 染野太朗、森山良太、

    恒成美代子。講演・春日いづみ)

   


   そういえば、本日は別府温泉で同窓会があっている。

   毎年開く中学校の同窓会は、今回は泊まりがけ。

   Yちゃんに会えるのを楽しみにしていたのだけど、残念。


7日、そして本日は香椎へ。

   それにしても机周辺に積みあげた書籍が気になってしかたがない。

   
   

   ことに、田村雅之詩集『オウムアムア』(砂子屋書房 2018年9月)と

   同じく田村雅之詩集『『デジャビュ』以後』の存在は。

   田村さんの詩集は『ガリレオの首』(七月堂 1978年)、『破歌車が駆けて

   ゆく』(アトリエ出版企画 1982年)、『鬼の耳』(砂子屋書房 1998年)と

   連れ合いの蔵書のなかに収まっているほどのファンでもある。



   心が清澄な(笑)時に、ゆったりと丁寧に拝読したい。

   ひとまず、連れ合いに託そう。



そんなこんなで、この1週間は〈怒涛〉の日々。

メールや電話を失礼しているかたもいらっしゃいますが、ごめんなさい。

生きています。しっかり生きています。

 

 

 

 

2018年9月 2日 (日)

季節の便り⑬ 夕顔(ヨルガオ) の花

待ちに待っていた夕顔(ヨルガオ)の花が咲きはじめた。

括弧内に書いているように正しくはヨルガオの花なのだけど、

ヨルガオなんて名前が好きでない。


   夕顔は花のあとに実が付き、食用または干瓢(かんぴょう)にする。

   ちなみに、源氏物語の「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる

   夕顔の花」「寄りてこそそれかとも見め黄昏れにほのぼの見つる花の

   夕顔」の、応答の「夕顔」は、ウリ科の正真正銘の夕顔みたいである。

 


まぁ、わたしは慣例に従って夕顔の花っていうことにして。

むかし作った歌を。


   ゆつくりと花びら開く夕顔は初々しくてせつない白ね

   ゆふがほの一つ二つと咲きはじめかの世の母にすこし近づく

                 『暦日』(角川書店 平成24年7月刊行)



夕顔の花が咲きはじめるこの季節は、夕暮れが待ち遠しい。

何度も何度も花を見るためベランダに。

かくして幸せな日曜日となった。

2018年9月 1日 (土)

ほろほろと生きる九月の甘納豆  坪内稔典

気がつけば9月。

はやいなあ。

1ヵ月が経つはやさ。

本日は「未来福岡歌会」だった。

お手紙をくださったA さんが、初めての出席。

繊細な歌を作るかたで、福岡歌会にまた新しい風が吹き渡る。


うれしくて気も漫ろだったのか、大失敗をしてしまった。

帰宅して、歌会会場の鍵を返しに行こうとしたら、その鍵がない。

手提げの中味をひっくり返しても、無い。

鍵を M さんに掛けて貰って確かに頂いた筈なのに…





もう一度、会場まで行って来るか、バタバタしていたら、

「僕が探して来るよ」と、連れ合いが言う。と同時に、出て行った。

こういう時はホントに有難いと思う。


ちなみに帰宅途中で買い物をしたストアーに電話してみる。

やはり鍵は届けられていなかった。


夕食の支度をしないといけないのに、それどころではない。

もう一度、探す。化粧ポーチ、ペンケース、電子辞書(ケース入り)

なんなんだ。wobbly

電子辞書を入れている布製のケースの中に入っていた。



鍵は出てきたのに連れ合いは帰って来ない。

道々をしっかり捜しているのだろう。

そんなこんなで天手古舞の、月はじめの土曜日であった。

 

      ねぇあなた池の向こうは涼しそう     池田 澄子


なんて、言えない。

まして、甘納豆のように生きられもせぬ、わたくしです。


      ほろほろと生きる九月の甘納豆      坪内 稔典

 

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