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2018年12月17日 (月)

歌集『空目の秋』 日高堯子  ながらみ書房

2014年から2018年にかけての470首をほぼ編年体に

収めた第9歌集。「かりん」所属。

    「帰りたい」病室の母はくりかへす 今宵の月はスーパームーン

    しのびやかに夕べの雲ののびてくる葛の草蔓(くさつる)うごかぬ上を

    種(しゆ)のためにつかはざりしわが肉体茅花(つばな)の原に照り

    かへさるる

    歌といふ不可思議言葉もて暮らす妻にしばしば苛立つ夫は

    通りゆく脚みな長い影を曳き 恋しいひとは忘れたきひと

    「わたしはいつ死ぬのかしら」ときく母に「あしたよ」といふ あしたは光

    小さな墓地購ひたりし後子のあらぬ夫婦の時間濃くなるごとし

    夏は来てましろ卯の花なだれたりこの世の崖に母捨てられず

    床に落ちた母を起こせず起こせぬまま並んで聞きぬ夕ほととぎす

    雨あがり夏茅原(なつかやはら)のいきれ濃し 生きてゐる人には

    もう抱かれず


1・6・8・9首目と「母」を詠んでいる。

その母を介護するためだろうか。

2014年に先立つ数年前より、自分の家と生家との往還が続いていることを

「あとがき」に記している。


6首目の、母に応える作者の「あしたよ」と言うことばのせつなさ、重さ。

この歌の「あしたよ」には、崇高な精神を感じる。母はそのことばで安心して

眠りにつくのかも知れない。

作者にとっても母にとっても「あしたは光」なのだから。




9首目は、床に落ちた母とそのまま並んだ状態で夕ほととぎすの声を

聞いている作者。夕ほとぎすの声は悲しい声だっただろう。

この歌は何度読んでも泣けてくる。作者も泣きながら聞いていた

のではないだろうか。


3首目、日高さんはお子さんがいない。

「種(しゆ)のためにつかはざりしわが肉体」という表現に驚かされた。

と、同時にそのような表現を果敢につかう勇気、その姿勢に歌人としての

在りようを垣間見る思いがした。


日常や生活をたいせつにして、歌が〈全人的〉であること。

日高さんの歌には「濁り」がない。

                           2018年11月27日発行

                              2500円+税

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