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2020年2月24日 (月)

「岡井隆論のためのノート」-私的フラグメント-①           中野 修  

 情動はいつも飼いならされている。不穏なさざなみが思考のすきまを

つっきってすぎるとき、刺しちがえることができるな、と想う。視えない

始原と先端を行き交う時間にからめとられて、なおもその意識を〈自己史の

渦動〉のなかにほうりこませるなら〈渦動の自己史〉はどのような像を結ぶ

か。わたしよたえず不安であれ。

 

   《ヒトリ孤独ニドコヘユクノカ》

   とハミングしていると

   ほんとにそういう気がしてくる

   とひとはいうが 逆だ

   ひとり孤独にどこへゆくのか ひとりひとり

   どこへゆくのかもわからない だから孤独だ

   きみの そして時代の

     〈何処へゆくのか〉吉本隆明

         (『磁場』四号 昭和50年2月)

 

 救済がないという諦念がひとつの救済だというところに立たされているわたし

たちの関係性が不安にうらうちされているのなら、ある全体性も像の不安によって

見えにくくなっている。吉本が〈何処へゆくのか〉と書いたあとに、〈ばってん、

泣こうごとある〉と男の声。「杏(あんず)しぼって下さいますか」と悲しみの追い

うちをかけるのは誰なのであろうか。岡井隆、いつ彼はわたしの視野で戦ぎ

はじめたのか、遠いことだ。

 

 『人生の視える場所』とは何のことであろうか。そのような<場所>に思いを

はせるところまで、岡井がそして時代がきたというのか。<私性>の問題とは

そういうことだ。内部の憤怒の抒情をたたえながらも、政治思想的には皮相な

ものしかもちえていない初期の歌よりも、<私>に徹することで、情況の地

すべりの根源をおさえている現在の岡井のほうがラディカルな意味において

思想的である。岡井は変ったと言うのではない。同じモチーフによりながら、

そのマチエールを深化させようとすれば、どうなるのか、身をもってわたしに

対しているのである。いま岡井がいる場処はどこか。問いは問いを産んで

自己運動している。うまく行けるかおぼつかない。問いにまかせるだけだ。

 

 『人生の視える場所』一巻は、詞書と一首の共鳴がくりひろげる喩の連続で

ある。正確に言うなら喩は一首のなかでは機能しえないところにきてしまって

いる。詞書と一首がメタファーの関係にある。これは喩の拡大なのか、質的な

転換なのか。

 

    今世紀はじめ病子規のひらきたる大きな傘にかくれてもとな

 

 ここには場面の転換も、上句と下句の喩的な関係もない。あるのは岡井に

とっての事実性しかないのである。喩が喩としての機能を失くしたと言って

いるのであろうか。そうではない。喩の可能性をもとめる行為、詞書はその

ひとつなのだろうか。

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           季刊短歌同人誌「飈」

              1983・2

            頒価 700円

 

 

 

            

 

 

   

   

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