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2020年2月26日 (水)

「岡井隆論のためのノート」ー私的フラグメントー ②         中野 修

     <詞書>わたしが何者なのか、どんなに考えてもわかりはしない。

         わたしは、人間の〈選外佳作〉なのだ。

 

   今世紀はじめ病子規のひらきたる大きな傘にかくれてもとな

 

     <詞書>月々もらうだけをことごとく費消しつくし、経済には

         つねに未来がない。

 

 事実と事実性を仮構してゆこうとすれば、そこには何かの欠損がひそんで

いるはずである。関係の欠損としての喩が、いたい全体性をもとめて

のたうっている。岡井はここが「人生の視える場所」だと言っているのか。

詞書との関係で一首全体が何かのメタファーとなっている。この〈なにか〉

とは何か。いたい渦動のなかにいる自己史が視えている。

      問がするどく曲がってゆく。

 欠損としての喩ー喩としてしか全体性を獲得しえなくなっている現在ー

対幻想〈家族の問題ー対国家としての表現〉の不可能性。わたしはひとつの

場所を想っている。言語論ー表現論ー国家論を同一のものとして扱いうる。

そんな思想の場所。短歌の時間性のうちに、一瞬だが視たと思った。

 

 ここまで行きつく論理をもちえないことによって何かをあきらめた地点で、

再び岡井隆論のモチーフに帰らなければならないのかもしれない。

 

     五七調、七五調を主体とした定型音数律は、風土的韻律である。

     この韻律の内部では、仮構が風土性として、風土が仮構性として

     あらわれる。その累積された呪縛を自由となしうる資質の内部に

     だけ、詩が威力として維持される。

          北川透『熱ある方位』(思潮社 1976年8月)

 

 いま書かれている短歌が、自己史の渦動をうたったものだとすれば、それが

結ぶ像は、像そのもののなかでしか運動しえない弱さをもっている。「累積

された呪縛」にたいして弱いのではなく呪縛を対象化することに弱い場所で

書きつづけられている。日常的な感性の幅におしこめてしまうのである。

そこから〈渦動の自己史〉と「人生の視える場所」を名付けてみる。渦動その

ものがまきおこす渦動が産んでゆく、像の不安な自由。反風土的契機に規定

されて、短歌の始源と先端を時間がわたりあっている。それは仮構への意志

によって産みだされた自己史である。

 

   歌はただ此の世の外の五位の声端的(たんてき)にいま結語を言へば

 

 この一首を掉尾にすえた「西行に寄せる断章・他」でもって短歌を再び発表

しはじめたときに、〈自己史の渦動〉を〈渦動の自己史〉に転換するという

困難な視点をみずから不可避なものとして負いこんだのではないか。資質と

しか言えないものによって。初出誌の「磁場・四号」(昭和50年2月)にのって

いる吉本隆明の〈何処へゆくのか〉との関係においてもそう考える。

 

 〈人生〉とは何か、〈場所〉とは何か。問いはそこに行きつき、「あざ

やかに咲け人の世の一回性」(「百歳」清水昶)とうたいだす。

 

『「西行」という宿題を与えられてからもう二年になる。わたしは彼の

同情者ではない。しかし、論が書けぬのはそのためではない。』情動の

おもむくままに、この岡井隆をめぐるフラグメントは解体し、喪失を

してしまっている。それはわたしに似てか、それとも彼に似てか。

やはり、失意のひかりにむかって書いてゆくほかはなかったのだ。

 

 

        季刊短歌同人誌「飈」第9号

           1983・2

                           頒価 700円

 

 

 

 

 

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