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2020年3月

2020年3月29日 (日)

討論『三島由紀夫VS.東大全共闘』新潮社

亡くなった彼の書棚を眺めていたら、背表紙の三島由紀夫の名前が目に

飛び込んできた。

『三島由紀夫VS.東大全共闘』《美と共同体と東大闘争》(1969年6月)、

『尚武のこころ』三島由紀夫対談集 (日本教文社 昭和45年9月)の2冊。

 

わたしは彼が昔日読んだであろう書をおそるおそる繙く。

14・5歳の少年がこの書が出た頃に買ったのではないだろう。

たぶん、大学生の頃に古本屋で買ったものではないかと思った。

やはり、そうだった。「古書の葦書房」(現在・閉店?)のロゴマークが

貼られていた。

 

1969年5月13日、東京大学教養部900番教室での東大全共闘との討論が

収められている。彼が引いたであろうラインのある個所を読む。

      

    (略)お互いの意思によって愛するというのは本当は愛のエロティシズム

     の形じゃない。相手が意思を封鎖されている。相手が主体的な動作を

     起せない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに

     訴えるのだ。これが人間が人間に対して持っている(注ー性的)関係の

     根源的なものじゃないかと思います。

      そして諸君がいらだっているのは相手の意思であって、相手の存在じゃ

     ないのです。(略)

 

この書を携えて、わたしは27日、映画「三島由紀夫VS,東大全共闘」を観に行った。

中州大洋のわたしが観た回では、観客は10人もいただろうか。

彼だったらきっと観るに違いない、の確信のもとに来たのだが。

 

三島由紀夫の語りは、丁寧で、礼儀正しく、そして、パッションがびしびし伝わって

きた。今では考えられないタバコの煙の立ち込める中での2時間25分に及ぶ討論。

討論は、「他者の存在とは」・「自然対人間」・「〈過去・現在・未来〉」など多岐に

わたっている。

 

     (略)言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。

      この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、

      言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の

      熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないと

      しても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。

 

最後の三島由紀夫のことばは泣きたくなるような素晴らしいものであった。

45歳で自決してしまった三島由紀夫。「行動」することによって「自決」の

道を選ばざるを得なかった三島由紀夫。

 

わたしには、政治も変革も、理解できないことばかりだが、

三島由紀夫のあの熱い思いが、かなしかった。

 

彼が生きていたら、彼がこの映画を観たら、なんというのだろうか。

 

 

 

 

      

               

 

    

 

     

2020年3月26日 (木)

『愛の顚末』梯久美子 文春文庫 

12人の文学者を取り上げ、その愛の姿を追ったノンフィクション。

   小林多喜二ーーー恋と闘争

   三浦 綾子ーーー「氷点」と夫婦のきずな

   原  民喜ーーー「死と愛と孤独」の自画像

   中城ふみ子ーーー恋と死のうた

   宮  柊二ーーー戦場からの手紙

   吉野 せいーーー相克と和解

                 他

 

「あとがき」で書かれていた、著者・梯久美子さんのことばに、「短歌」での

作品と作者のことなどに思い至った。

 

   (略)作家と作品はまったく切り離して考えるべきだという人もいるが、

    少なくとも私は、彼/彼女がいかなる時代を生き、誰を愛して何に傷

    つき、どのようにして死んでいったのかを知りたく思う。(略)

 

本書の「解説」を、歌人の永田和宏さんが執筆していた。

永田さんもまた、作品と作者に触れて、下記のように記している。

 

    (略)私のやっている短歌という短詩型では、作者についての情報は、

     時に思いもかけない歌の背景を暗示することがあり、歌の理解が

     格段に深まることがある。常に作者の実生活がそのまま作品に表れて

     きているということはないのであって、そこには十分注意深くあるべき

     だが、作者の実生活に縛られるのではなくて、作者を知ることが歌の

     読みの深度を深めるのであれば、知るに越したことはない。(略)

 

読みすすめ、最後の章の「吉野せいーーー相克と和解」で、泣いてしまった。

この章を最後にもってきたのは正解?だったような。

梯さんの文体、好きだなぁ。

さらさらと読めてしまう文庫本なので、是非繙いてみてほしい。

 

           解説 永田 和宏

           2018年11月10日 第1刷

             定価 720円+税

 

            

     

   

2020年3月21日 (土)

映画「Fukushima 50」 若松節朗監督

2011年3月11日に発生した東日本大震災。

その地震、津波によって福島第一原子力発電所は電源を失う。

メルトダウンによって、どのような事態になってゆくのか、

想像するだに怖ろしいことである。

 

現場にとどまり作業員たちと共に危険な状態を回避するべく

吉田所長(渡辺謙)は奮闘する。この吉田所長と政府とのやりとり。

観ていて歯痒い思いがしたシーン何度となく。

 

当直長の伊崎(佐藤浩市)と、吉田所長の結束・信頼。

 

東日本大震災で、福島原発によって、日本は滅びることになったかも

しれないことを思うと、回避できたのはほんとうに何よりであったと思う。

 

最後のシーンは綺麗に纏め過ぎたように思ったのだが…

 

 

 

 

 

 

2020年3月20日 (金)

2005年3月20日、福岡県西方沖地震から15年。

珍しく朝からメールあり。

「生活物資」何か送ろうか?って。

今のところ「生活物資」には、何も困っていないけど、こうして

案じられているのはうれしい。

 

2005年の3月20日、地震発生。

最初は眩暈がしたのかと思った。

福岡に地震なんて、想像さえしていなかった。

 

想像さえしていないことが、生きていると襲ってくる。

このたびの新型コロナウイルスだって、考えてもいなかった。

マスクがない、トイレットペーパーがないと、戦戦兢兢。

短歌の教室も、歌会も、3月は全てお休みになってしまった。

 

ともあれ、今日は「非常持ち出し品」の検品をすることである。

 

 

 

2020年3月19日 (木)

詩 「ある消息」 中野 修

      ある消息    中野 修

 

  燠のきえるながさに息をつく

  すずしい疲労にたたまれてある明滅

  生きのびるためにすりよせる

  わたしの振幅は

  深夜となれないまま黒ずみ

  表層となってあらわれるまずしい指令

  そぎおとしてゆく消息には目もくれず

  年代記の裏側につながれてあるもの

  あえかなる未決

  ひややかなぬくみとなって流入し

  欠けたままある死の椅子

  誰のものでもなくなった野のしらべでは

  情意のようには眠れない

  消息する燠をおもい

  つたえることを拒んだ熱によってつれさられる

  このままあるいは予定されたまま

  寸分の狂いもなく行為された書記

  偽の年代記をひるがえすこと

  それは

  ゆうよされた口笛が夕暮れをよび

  ただひとことを告げるためにもわたしを訪う

  許されたまま朝への回景をとどめおき

  そこで影だけの排泄に草稿の不眠はかさなる

  廃市をおわれるように覆うならなるべくふかく

  うずみ火のたてにさけたすきまを埋めて

  割れたまま消長する燠

  わたしは

  まなこがいだく無言歌にみがかれてほそる

 

 

 

 

  

2020年3月17日 (火)

『山猫珈琲』上・下巻 湊かなえ 双葉文庫 

某日、近くの書店に行くとお子様たちが多い。

家族連れの方々も多いのが目につく。隣のスペースの喫茶も満席みたいだ。

そうか、こんな時こそ本を読むべきなんだな、と思う。

 

あれこれ物色しているうちに『山猫珈琲』が目にとまる。

どうも「猫」にわが目は反応したようだ。

 

上・下巻購入した。

そして2冊とも、もう読んでしまった。

タイトルに惹かれて買ったのだが「猫」のエッセイはあまりなかった。

(かわりに、カワイイ猫のイラストがあちこちに描かれてあった。)

好きなものは「山」・「猫」・「珈琲」ということで『山猫珈琲』にしたみたい。

「山」のエッセイ、そして著者が在住する淡路島の風景や「おいしいもの」が

沢山出てくる。

 

そう、湊かなえさんは、2008年『告白』の小説の刊行によって、2009年に

「本屋大賞」を受賞して、翌年にはその小説が映画化されたことだ。

小説家としてデビューする前には脚本を書き、応募している。そのシナリオを

書いていた頃の決意が凄まじい ?

                   地方在住のまま、必ず成功してやる ! と誓う



などと、赤裸々に書かれている。

上巻の第三部の「デビュー前夜」あたりから一気に読んだ。

やはり何かを極めようとする人の〈志〉はスゴイ。

 

     (略)たとえば、1度目の流産より2度目の流産の方が早く

     立ち直れるのは、心が強くなったからではなく、心の一部を

     石化させることを覚えたからだと思うのです。心の大部分が

     石化してしまう前に、何か心を表現できることをしなければ、

     その思いをもって、書くことに挑戦することにしました。(略)

 

この部分がいちばん感動したところ。

「心の石化」なんて発想は流石、作家サン。

心が石化してしまわないうちに、わたしも短歌を作らなくちゃ。

 

 

            上・下巻ともに、2019年12月15日 第一刷発行

               〃     600円+税

 

     

 

 

2020年3月16日 (月)

『万太郎の一句』小澤 實  ふらんす堂

ふらんす堂のホームページに平成16年1月1日から366回連載した

俳句鑑賞本。

このところ万太郎の俳句にのめり込んでいるわたくし。

本日は、3月の中の一句をあげたい。

 

    生きてゐる気のなくなりしすみれかな

       『青みどろ』所収 昭和11年〜13年作

    

        (鑑賞は小澤實) 

   「いたづらに言葉を弄ぶものにあらず」と前書がある。

         生きている気がなくなっても、たしかに生きている。

   道端の菫の花が風に吹かれているが、その小さな花と

   同じように生きている。深い絶望が書かれているのだが、

   単なる絶望のみなら句は記すまい。それでも生きている

   「生」が書きとめられていると読みたい。(略)

 

          2005年7月1日 初版発行

            定価 1800円(税込)

 

 

   *    *    *

「生きている気がなくなっても、たしかに生きている。」のは、

わたしでもある。それでも生きている、といえるのか。

 

散歩の途次に見た、こぶしの花が、はらはらと、散っていた。

 

 

 

 

             

           

 

        

 

 

 

2020年3月14日 (土)

歌集『生きてはみたが』千々和久幸 砂子屋書房

本集は『水の駅』に続く第六歌集。

457首をほぼ逆編年体に収めている。

著者自身が「あとがき」でタイトルに対して「身も蓋もなく、あまりにも芸が

無さ過ぎる気もしないではないが…(略)」と記している。

 

しかし、このタイトルの「苦く屈折した自嘲の思い」も、氏の第一詩集『恋唄』の

経緯を知る者にとっては納得できる。『模範答案』というタイトルにする筈だった

のを詩人の山本哲也氏が勝手(事後強制)に『恋唄』と改題してしまったのだ。

(『詩という磁場』山本哲也著 石風社 1988年12月刊)

『模範答案』に込めた氏の「苦く屈折した自嘲の思い」は脆くも挫折したのだ。

(結果的には『恋唄』で良かったともいえるが。何しろ第一詩集だし。)

 

第一詩集『恋唄』が刊行されたのは1965年。それから2冊の詩集を刊行し、

第一歌集『壜と思慕』が刊行されたのは1981年であり、歌人としての出発の

方が遅かったのである。

 

自由詩から短歌へと移った氏の思いは窺いしれないが、〈詩をつくるより田を作れ〉

ということをしばしば口にしていたらしい。

 

さて、前置きはこのくらいにして、歌を挙げたい。

 

   いつか来るきっとその日が突然に そのいつかなお信じ難しも

   わたくしが五月の風であったとてだあれも来ない朝の食卓

   晩酌より明日食うものをどうするか ちゃらちゃら詩など書いてはおるが

   生きているものが優先 当然のこととし葬儀の日程決まる

   蟻地獄に落ちたる蟻が踠(もが)きつつようよう己が蟻だと気づく

   信号より二つ目の角くじら屋の二階でとぐろ巻いております

   紀伊國屋に売れ残りいしわが詩集時折覗き確かめゆけり

   長くやるほど下手になるゴルフなれ 短歌も同じコースを辿る

   「お近かくにお越しの節は」は削除して転居通知の発送終えつ

   当然に居るべき人が居なくなるこれまでもそしてこれからもまた

 

 

1首目、「その日」とは、死んでしまう日のことだろう。「突然に」来る

   死は遺された者にとっては耐え難いことであろう。そして、1年が

   かり、あるいはそれ以上の日々によって徐々に徐々に「その日」を

   迎える闘病の人たち、病人も介護する者もつらい・せつないことで

   あろう。いずれにしても「その日」が誰の上にもいつか訪れる。

 

3首目、〈詩を作るより田を作れ〉といつも言ってた氏。「ちゃらちゃら」

   は、ちょっと言い過ぎ(笑)

 

5首目、猫が自分の姿の映った鏡をつくづく見て「ぼくは猫だったのか」という

   動画 ? を先日観たが、蟻地獄に落ちた蟻も哀れなことよ。「蟻」は著者

        自身の比喩かも。

 

6首目、子規のハガキ歌みたいな。「ですます調短歌 ? 」

 

8首目、「同じコースを辿る」短歌とは、嗚呼。

 

10首目、居なくなって気付くことの多さ。それは〈愛〉であったりもする。

 

 

             2020年3月14日 初版発行

               3000円+税

             

 

 

 

2020年3月10日 (火)

歌集『202X』藤原龍一郎 六花書林

真っ赤なカバーの、真田幸治の装幀が斬新である。

ギャング風の4人の黒ずくめの男たち、想像力をかきたてる絵である。

表紙も、見返しの紙も、扉も、スピンまで、真っ赤である。

 

    戦死者は映らぬゆえの清潔な戦争さらば名誉の戦死

    春寒のこのニッポンに数限りなき魍魎が悪徳をなす

    世界終末時計はすすむ酷熱の五輪寒雨の学徒出陣

    東京タワー夕日に映えてそびえたち東京じゅうに電波を飛ばす

    ツイッターなる奔流は日に夜に喜怒哀楽を流し さえずる

    三十八歳の新人として受賞してのち四日後にかの子生れたり

    韻文をわが武器となし見あげれば積乱雲の翳の濃密

    ウタビトの無力は至福金輪際「撃ちてし止まむ」とは詠わぬを

    二〇〇X年某月某日未明なる劫火に首都は燃えていたるや ?

         おそらくは東京五輪おそらくは聖火は戦火となり炎上す

 

悲憤慷慨、義憤、公憤、憤怒、激怒等々のことばが似つかわしい歌の

数々である。時代に対する醒めたまなざしの強さ。

ここまでうたってていいの ?  などと、小心者のわたしは危惧する

愚か者である。

6首目の「三十八歳の新人」のエピソードは、知る人は知っている。

 

    一九八九年九月に私は第一歌集『夢見る頃を過ぎても』を

    上梓した。次の年の現代歌人協会賞の候補にもなった。しかし、

    受賞はならず。(略)

    今思えば幼稚な虚栄心だが、このあと短歌をつくり続けても、

    受賞歌人よりは下にランク付けされるだけだ。それが悔しか

    った。自分も受賞歌人と呼ばれたい。短歌研究新人賞に応募

    すれば、受賞歌人になれるかもしれない。よし、応募しょう!

    と「ラジオ・デイズ」三十首をつくった。そして、運よく受賞

    できた。三十八歳の新人賞。歌集を出した翌年の受賞。

    これは珍しがられた。(略)

 

 

この一文は、歌集の前半の方に収められている。

努力の人、執念の人でもあろう。

 

そして、思うのは、昨年から今年にかけての動静は注視するに

値する。『藤原月彦全句集』(六花書林)、秦夕美との共著『夕月譜』

(ふらんす堂)を上梓している。

 

 

 

          2020年3月11日

           2500円+税

 

 

 

2020年3月 9日 (月)

「福島泰樹+龍 曇天を歌う」1982・9・5

「村上一郎から中也まで」の副題の付いた、渇水期発行所のガリ印刷の冊子。

この冊子は1982年9月5日、ライブハウス「多夢」での福島泰樹短歌朗読会

のために準備されたものである。

当時はパソコンなんて各家庭にはなかった時代。

この10ページほどの冊子のガリ切をしたのは、中野修であった。

その彼の巻末の文章を下記に転載したい。

 

 

       9・5へのメッセージ        中野 修

 

   短歌は自己同一化しようとすればするほど、その経験のなかに参入

  できる構造を持っている。読者の体験を無化させて純粋に必要なもの

  としてひとつの〈場〉をもつことができるのである。しかし共同的な

  感性の基盤が、みじんもなく解体させられている現代において、短歌

  のもつ意味的なものと像的なものは個人の思惟性にのみ還元されざる

  をえない。おそらくこの狭間を、福島泰樹は肉声をとうしてつなぎと

  めようとしたのだ。あくまで地上性に徹しようとする彼が、岡井・塚

  本のあとをうけて出てきた必然は、短歌的喩が〈喩〉としての機能を

  自己解体せざるをえない問題を前衛短歌が新たに胎んだとき、ひとり

  の短歌的前衛として出現したのだ。おのれ自身をひとつの喩に解体す

  ること。

      *

   福島泰樹の名は知っていたが作品はほとんど知らなかった。運動か

  ら脱落していたぼくや友人たちは酔うとインターを歌った。酔ってし

  か歌えなかったのだ。「酔ってインター歌うな……さすれば」という

  ぼくの口ぐせになっていた言葉。

   読者も作者もちょいとばかり遠くへきてしまったようだ。

      *

   かつて反逆のバリケードにいた者が、戦いが終焉したあともなお、

  一人の意味を追いながら戦うとしたら……おそらく彼らはいまもこ

  の長い冬をおのれの熱に耐えて生きているのだ。福島泰樹もこのよ

  うなひとりなのかもしれない。

      *

   ぼくの射程のなかで、いくらでもはみだす実と虚のあわい、狂声、

  を静かに聞こうとする。そばに狂器をおいて。

 

               印刷・ガリ切  渇水期発行所

 

 

 

 

 

 

2020年3月 6日 (金)

季節の便り(40) 桜草の花

こぼれ種から芽生えた桜草の花が咲いた。

ピンクの可愛い花色。玄関にその桜草の鉢を置いた。

 

     わがまへにわが日記、且、桜草 久保田万太郎

     これからのこの世のいろに桜草 和知 喜八

 

サクラソウ科サクラ属のこの花は桜に似たかわいらしい花である。

 

昨日は久しぶりに外を歩いた。8893歩だった。

外をあるくといろいろな花が目に飛び込んで来る。

オオイヌノフグリ、ホトケノザ、タチツボスミレ、カタバミ等々。

そして、白梅・紅梅・白木蓮、辛夷、沈丁花、連翹、馬酔木の花など、

樹の花も陽射しを受けて耀いている。

 

新型コロナウイルスの感染拡大を案じて、各、教室は3月一杯はお休みに

なってしまった。

さて、この期間にわたしは何をなすべきであろうか。

「積ん読」が少しは解消されるように、読書に励まねば……

 

 

 

 

 

 

 

2020年3月 4日 (水)

『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』永瀬清子   詩の森文庫

    詩人とは何か

     詩人とは何か。

     詩人とは誰よりも正直な人でなければならない。

     人間の精神について、自分の存在について、

     誰よりも正直に語るために嘘をまなぶ。

 

    なぜ

     なぜ五十年も詩を書くのか、ときく。

     一番主な理由は「自分に満足していないから。」

     天使か悪魔ならたぶん詩を書かないだろう。

 

    死によって

     死によってはじめて愛がわかる。

     居なくなった人はいつでも会える人より、愛(お)しい、かなしい。

     あの時、何かを恐れもう一歩近よらなかった失策が、はじめてわかる。

     失策、沢山の失策の中に埋れて人間は、私は、やがて死ぬ。

     私が居なくなったら又沢山のことがわかるだろう。「死」があることは

     きっと「わかる」ことのためなのだからーー。

 

 

              解説 「しぶきのあがる所」新井豊美

                 2007年2月28日

                  980円+税

     

 

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