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2020年3月 9日 (月)

「福島泰樹+龍 曇天を歌う」1982・9・5

「村上一郎から中也まで」の副題の付いた、渇水期発行所のガリ印刷の冊子。

この冊子は1982年9月5日、ライブハウス「多夢」での福島泰樹短歌朗読会

のために準備されたものである。

当時はパソコンなんて各家庭にはなかった時代。

この10ページほどの冊子のガリ切をしたのは、中野修であった。

その彼の巻末の文章を下記に転載したい。

 

 

       9・5へのメッセージ        中野 修

 

   短歌は自己同一化しようとすればするほど、その経験のなかに参入

  できる構造を持っている。読者の体験を無化させて純粋に必要なもの

  としてひとつの〈場〉をもつことができるのである。しかし共同的な

  感性の基盤が、みじんもなく解体させられている現代において、短歌

  のもつ意味的なものと像的なものは個人の思惟性にのみ還元されざる

  をえない。おそらくこの狭間を、福島泰樹は肉声をとうしてつなぎと

  めようとしたのだ。あくまで地上性に徹しようとする彼が、岡井・塚

  本のあとをうけて出てきた必然は、短歌的喩が〈喩〉としての機能を

  自己解体せざるをえない問題を前衛短歌が新たに胎んだとき、ひとり

  の短歌的前衛として出現したのだ。おのれ自身をひとつの喩に解体す

  ること。

      *

   福島泰樹の名は知っていたが作品はほとんど知らなかった。運動か

  ら脱落していたぼくや友人たちは酔うとインターを歌った。酔ってし

  か歌えなかったのだ。「酔ってインター歌うな……さすれば」という

  ぼくの口ぐせになっていた言葉。

   読者も作者もちょいとばかり遠くへきてしまったようだ。

      *

   かつて反逆のバリケードにいた者が、戦いが終焉したあともなお、

  一人の意味を追いながら戦うとしたら……おそらく彼らはいまもこ

  の長い冬をおのれの熱に耐えて生きているのだ。福島泰樹もこのよ

  うなひとりなのかもしれない。

      *

   ぼくの射程のなかで、いくらでもはみだす実と虚のあわい、狂声、

  を静かに聞こうとする。そばに狂器をおいて。

 

               印刷・ガリ切  渇水期発行所

 

 

 

 

 

 

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