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2020年4月29日 (水)

『どんぐり』大島史洋歌集 現代短歌社

2014年から2018年までの5年間の総合誌に掲載された

作品540余首を収めた第13歌集。

 

   亡き友とかわす会話のつまらなさおのれの思うままにはこべば

   産院に孫を見にきてこのたびはペルー産ふくろう一つを買いぬ

   ステージ別生存率なる表はあり 俺のステージはもう終わったか

   川戸にて摘みて給いし水芥子手に撫でており夜の卓の上

   どんぐりの大小さまざま玄関に散らばりてあり夜半を帰れば

   吾が部屋の床のくぼみに目を落としじっと見ていし或る日の息子

   人間が壊れるとは比喩ならず肉体ならず目に見えぬなり

   小池くんほど面白くは書けませんそうことわっている夢を見た

   へたくそな登良夫と囲碁がうちたいなあそんな殊勝な夜中ではある

   日本語がこわれる前に人間がこわれて私はこわれはじめた

 

8首目の歌を読むと、小池さん(小池光氏)の短歌が射程にあるのか ?  と、

思ってしまう。小池さんの歌の面白さは、唯の面白さとは違って、ペーソス

即ちユーモアの底にもの哀しさがただよっているのだが。

(あ、ごめんなさい。歌ではなく「書けません」だから、文章かな ? 。)

 

もの哀しさといえば、6首目。大島さんの息子さんならではのリアリズム。

父親が四六時中、座っている床のくぼみに「目を落としじっと見ていし」。

きっと息子は父親の在り様に思いをいたし、さりとてなんにも言わずに。

(この歌の背景を「未来」二次会で、息子と父親の関係として、大島さんが

苦笑しながら喋っていたような。)

 

3首目の「ステージ別生存率」とか、10首目の「私はこわれはじめた」など、

余裕があるというか、ホントに「こわれはじめた」人は「こわれはじめた」ことなど

認識していない筈だが ?

 

9首目の「登良夫」はアララギの歌人でもあった大島登良夫氏。大島さんの父君で

ある。「囲碁がうちたいなあ」の素直な吐露。しかし「へたくそな」と一言付け加える

ところが大島さんらしい、照れ隠し。そして「殊勝な」と言い訳をする。

 

2首目の「ペール産ふくろう」は、孫に遣るためではなく、蒐集している自分のために

買ったのだろう。自祝の思いを込めて。

 

4首目の川戸の水芥子。土屋文明の疎開先でもあった川戸への思い入れか。

(「水芥子冬のしげりを食ひ尽しのどかに次の伸びゆくを待つ 

                                                           土屋文明 『山下水』」)

 

5首目の玄関にちらばるどんぐり。この歌の背景は言わずとも、幼い孫らを読み手は

想像できる。

 

4首目、5首目のような、ナチュラルな歌がいいな。

そういえば、大島さんにももう随分お会いしていない。

「私はこわれはじめた」なんて、かなしいことは言わないでっ。

 

 

            2020年4月13日 発行

              3000円+税

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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