書籍・雑誌

2017年7月21日 (金)

「もはや抗えないもの」 山田 航    『短歌』2017年7月号

短歌の総合誌を4誌も年間購読していると、読み終らないうちに次号が

届いたりする。総合誌に加え、短歌関係の新聞も2紙、年間購読している。

と、前置きをして、本日は『短歌』2017年7月号の注目記事を。

この号も特集の「短歌再入門」があったりして、読み応えがあるのだけど、

山田 航さんの「歌壇時評」に注目した。


        --略

        文語という文体、そして旧かなという表記は、かつてはそれを

        用いる歌人の思想性そのものだったのだ。--略

        --略

        今や「昔の人の文体」というよりも「中二病の文体」という

        イメージの方が強いはずだ。






「中二病の文体」?とは、面白い発想だ。

山田さんは続けてこう書く。「--略 どうしたって言葉はコスプレの匂いを

帯び、放たれるそばから虚構化されてゆくしかない。ーー略」





結社「塔」の3・4月号で、吉川宏志さんが平井弘さんにインタビュー、

をしている。タイトルは「恥ずかしさの文体」なのだが、そこでの発言から

「ーー略 社会的メッセージを訴えようとするとき、新かなをそのまま使う

ことは『真面目すぎる』と考えたのだろう。含蓄の文体、はぐらかしの文体

としての旧かなである。ーー略」(山田 航 文)







筆者(ブログを書いているわたし自身)は、「塔」のインタビューを読んで

いないので、確たることは云えないのだが、山田さんの解釈でいいのだろう。


      --略 文体は表象なのだから、いくらでも変わってゆくものだ。

      思想という言葉に甘えてその使い方を硬直化させていると、本当に

      伝えたいことすらも伝えられなくなる。文体に囚われて自縄自縛に

      なるのは愚かしい。表現したい内容に合わせて文体を自在に

      使いこなせる歌人こそ、プロフェッショナルといえるのではないかと

      思う。

山田さんの書いていることは、まっすぐ伝わってくる。難しいことをこんなに

平易に説いてくれていることに感激した。






それにしても、わたし自身、新仮名遣いから旧仮名に変えたのは、他でも

ない、山田さんの書いている「含蓄の文体、はぐらかしの文体」としての

機能を信じて遣ったように思う。






このブログの6月13日にも書いたことだけど、「新仮名遣いでは気持ちが

生々しくも表出しそうでこわかった。」というのが、正直なところだ。

旧仮名遣いを〈隠れ蓑?〉にしたかったのだ。



この山田さんの「歌壇時評」を読んでないかたは読んでほしい。

読まれたかたは再読してほしい(笑)



「文体と格闘する歌人」は、こののち出てくるのだろうか。


2017年7月20日 (木)

『ネコのなまえは』 枡野浩一 ぶん  目黒雅也 え

表紙の色は、真っ黄色。

そこにネコがまんまるくなっている。

そのネコの色も真っ黄色。

歌人の枡野浩一の書いた絵本。

その絵本の絵を担当しているのは目黒雅也。

            なまえはネコにした

            ネコというなまえのネコ   

                         

                          ゆたんぽであたため

            スポイトで

            ミルクをあげていたら

            みるみる成長(せいちょう)し……







この絵本って、何歳児向けなのかな。

おとなが読んでもちっとも可笑しくない。

むしろ、大人に読んでもらいたいくらいだ。







            ネコは

            すくすく

            すくすく

            成長(せいちょう)した







目黒雅也の絵がいい。

ネコはネコらしく、イヌはイヌらしく描いている。

そして、にんげんは、ちっとも人間らしくない。

貼り絵みたいだ。(笑)


こんなステキな絵本を読んだら、鬱陶しさが消えてしもうた。

北部九州も本日20日、梅雨明けしたことだし。







            ネコは

            ますます

            ますます

            成長(せいちょう)した

                                   絵本舘 出版

                                   2017年6月初版

                                   1300円+税







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うれしいニュースが飛び込んだ。

穂村弘さんの『鳥肌が』のエッセイが第33回講談社エッセイ賞を受賞。

(このブログ「暦日夕焼け通信」では、2016年7月27日に紹介)

そして、梯久美子さんの『狂うひと』が第39回講談社ノンフィクション賞を

受賞した。梯さんのこの書は、読売文学賞も受賞しているし、長年の取材が

報われた、ということでしょう。

(このブログ「暦日夕焼け通信」では、2017年3月12日に紹介)




お二人様、おめでとうございます。

2017年7月13日 (木)

歌集『窓は閉めたままで』 紺野裕子 短歌研究社

著者は、福島市で生まれ育ち、高校卒業後は現在に至るまで首都圏で暮らし

ている。

      ーー略

      二〇一二年春から二〇一七年春までの歌を収めた。帰還困難

      区域の大熊町を通過する間は、窓は閉めたままでなければ

      いけない。警察官が三人一組で監視に立つ。この現実を記憶する

      ため『窓は閉めたままで』を歌集題としたーー略

                              「あとがき」より抜粋







東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故。

ふるさとの在りように心を痛めつつ、うたった作品は著者の視線で捉えられ、

臨場感があり胸を打つ。


      ふるさとの住宅除染説明会 父に代はりて出席をする

      行政も業者も知らぬ除染日程どこへ電話をすればいいのか

      老いし夫婦のかたちつぶさに子らに見せ父母は逝きたり二年を

      おかず

      螢(ほうたる)よこつちの水は苦いぞい 汚染土を抱くちちははの庭

      はつなつはりんごの花の咲きさかるところ紺野の姓は寄りあふ

      ふくしまの止むことの無き喪失をわが身のうちにふかく下ろさむ

      トン袋五段に積まれ汚染土は海までつづく野ざらしのまま

      家畜にはあらずペットにもあらず生きのびた牛草食むをみる

      一時帰宅の町民のため水とトイレ用意して待つプレハブがある

      誰がための帰還ならむか〈絆〉などゆめ持ちだすな為政者たちよ


ドキュメンタリーを読むような衝迫力がある。

10首を引用したが、福島以外の歌も勿論収められている。しかし、これらの

歌を読むと、著者にとって、いま、うたう、うたわなければならないものは何

なのか、ということを考えさせられる。







5首目を読むとせつない。そう、田舎では同じ姓の家が多い。

はつなつになると、林檎の花が咲き、同じ姓の家があちらにもこちらにも

点在するふるさと。そんなふるさとなのだが、一変してしまったのだ。



ところで、

歌集後半に収められている章「シベリア」に惹かれた。わたしが旅をしたい

地の一つでもある。

著者は「短歌人」に所属。第三歌集である。


                     帯文 小池 光

                     平成29年6月27日     2500円+税



               



     

2017年7月11日 (火)

「月刊 はかた」2017年7月号   竹中優子さんのエッセイ

福岡から出ている「月刊 はかた」。

文化情報誌っていったらいいかしら。

福岡・はかたのグルメや文化の情報誌である。

変形版の可愛らしいサイズで、表紙のやわらかい色合いがいい。





この冊子に竹中優子さんが短歌 1 首 とエッセイを連載している。

その連載のタイトルは「博多の五、七、五」。

そして、今月の歌は、

      黒色のキーボード覗き込む夜中A、K、Nの文字掠れおり

                               竹中 優子

エッセイの内容は、パソコンのキーボードの文字判が擦れているのに気づく。

よくよく見ると「K」がことに擦れている。以下のようにつづく。


      なぜ「K」は擦れるのだろうか。

      カ行の、勢いがあり抜けていくような響きの美しさから、

      心の中でカ行の言葉を使うとき人は無意識に勢いをつけて

      「K」の文字を叩くからだと思っている。か、き、く、け、こ

      やはり、きれいな響きである。






すてきなエッセイである。

文字の擦れに気づいても、ふつうここまで考えない。

歌人の竹中さんらしい、発想というか、考察?ではないかしら。






ちなみに、わたしのキーボードを見ると、全然擦れていない。

まぁ、2年くらいしか使っていないし、普段でも竹中さんほど使っていないと

いうことかしら。





それは、ともかくとして、この「月刊 はかた」の、今号の特集は「追い山で、

旧町名めぐり」。




                        「月刊はかた」  定価380円。

                           送料込みで6ヶ月2280円。





 

 

 

2017年7月 2日 (日)

『新選 小池 光歌集』 現代短歌文庫

第5歌集の『静物』と、第8歌集の『山鳩集』を全篇収めている。

砂子屋書房の短歌文庫では、『小池 光歌集』・『続小池 光歌集』に

続く3冊目ではないだろうか。

『静物』は、40代の終わりから50代の歌集で、『山鳩集』は、2004年から

2009年までの6年間、即ち著者の57歳から62歳くらいまでの作品になる?。


ところで、こうして文庫に収める時に、単行本で出した時の作品の

訂正をしたり改作するのか興味がある。それで、とりあえず『静物』だけを

単行歌集と今回の文庫版とをつき合わせてみた。

以下、気がついた歌のみ。






 (原作)おたくやるじゃない、とか言つて十数手後の、と金が「詰めろ」

 (文庫) おたくやるじやない、とか言つて十数手後のと(、)金が「詰めろ」



 (原作)盲人のまへに芙蓉のくれなゐが沈黙をしてをれるときの間

 (文庫)盲人のまへに芙蓉のくれなゐが沈黙をしてゐたるときの間




  (原作)重力のしづくの如く実りたるアボガドは来(き)ぬ死の谷(デス・

      ヴアレー)より

 (文庫)重力のしづくの如く実りたるアボカドは来(き)ぬ死の谷(デス・

      ヴアレー)より









1首目は、拗音の小文字を訂正し、「と金」の部分の「と」にルビの点を

付けている。たぶん、意味を通じ易くしたのだろう。

2首目は明らかな改作のように思う。「をれる」を「ゐたる」と改作。

3首目は、間違い?「アボガド」を正しく「アボカド」に訂正している。

この文庫には巻末に歌論とエッセイが収められている。

これが滅法面白い。小池さんのエッセイは夙に好評であるが、

今回収めている塚本邦雄の文体に対する考察、そして、

「茂吉という人間」の文章など、若手の歌詠みたちに是非読んで

貰いたい。

      

             短歌は私性の詩型とか一人称の詩型とかいわれる。ことの

      是非はいま置くとして、仮にそうであるならば、どういう人物像が

      その作品から立ち上がってくるかが短歌の価値を左右する

      理(ことわり)になる。おもしろい人間が立ってくればその短歌は

      おもしろい。興味の湧かない人物しか浮かばないのであれば

      いかに作品が「立派」であろうと、その短歌はつまらない。ーー略

『短歌』の2003年5月号に掲載されたものの転載である。

これを読むと、茂吉の歌を読み返したくなってくる。

     


     その鞄われに持たれてとしふりぬ遠くの虹を見たりなどして

                             『静物』より  小池 光

                       2017年6月28日 初版発行  2000円+税

 

2017年6月20日 (火)

『季刊午前』 第55号 2017

「特別企画『季刊午前』四半世紀を超えて」が組まれている。

       ーー略 ところで貨幣とはフィクションなのだろうか。想像の

       産物なのだろうか。ーー略


       --略 神話が現実を変えるのである。しかも「あっという間」に。

       神話とはフィクションであり、構想され、創作されるものである。

       ーー略          「フィクションの可能性」    片山恭一



片山恭一氏の文章は、示唆に富むものながら、哲学的?過ぎて、わたし

自身の理解の届かないところがあり、難儀(笑)をした。

(そういえば、10年以上前のことであるが、「未来福岡歌会」に片山氏をお招

きしたことがある。Kさんの伝(つて)によるものだった。

短歌の批評をして下さり、懇親会にも出席して下さった。その節は会費まで

払って下さり、ほんとうに恐縮してしまった。)


        今ならわかる。これは、ドア・イン・ザ・フェイスというテクニックで

        ある。最初に大きな要求を出しておいて譲歩したように見せ、

        結局思い通りに人を動かす。
                        「北川晃二先生のこと」 原口真智子

『季刊午前』の前身である『午前』の牽引者であった北川晃二氏のことを

原口真智子さんの文章は、氏を偲びつつ、師に寄せるひたむきな思いが

綴られていた。「北川先生は、いまだ私の人生の北斗なのである。」と結ばれ

ている。






この第55号には、4月にお亡くなりになられた宮本一宏氏の「追悼」も編まれ

ている。橋本明氏の「卯の花の咲く頃に」、坂口博氏の「修羅を生きて」を

熟読。橋本氏の「訃報はいつも突然に、である。」の言葉に納得。文学散歩

の写真が一葉掲げられていたが、その中にS・Tさんの姿も見える。彼女から

頂いた宮本先生の著書2冊は今もわたしの書棚にある。





       『近代詩人の内景(発見と追跡)』 桜楓社 1984年  宮本一宏

       『北原白秋(物語評伝)』 桜楓社 1986年    宮本一宏



書棚から取り出してみたら、中からはらりと手紙が落ちてきた。

「でも胸の内にはあれこれと書きたいことが渦巻いております。書きたい

ということと、書けるということは別のもののようですね。」和柄の便箋に

書かれたことばにS・Tさんの当時の焦燥感が伝わってくる。







さて、さて、この号の詩や小説に触れたかったが出掛ける時間が迫ってきた。





昨夜、読んだ田島安江氏の「紫の花に」には、中城ふみ子の『乳房喪失』や

渡辺淳一の小説『冬の花火』がちらりと出てくる。主人公の「みちこ」は、新聞

に投稿をしている短歌を詠むひとなんだ。そして、その母親も……

               


               平成29年6月20日 季刊午前同人会  800円+税

 

2017年6月19日 (月)

『だれかのいとしいひと』 角田 光代 文春文庫

ふらりと立ち寄った書店で、ふらりと買ってしまった文庫本。

平仮名ばかりのタイトルがいい。

薄そうだし、すぐ読めそうだ。

そして、何より何より購求を誘ったのは、解説の歌人の枡野浩一。

冒頭のことば「角田光代のことは、好きになったばかりだ。」と来る。

「え、何? それ。」ってたちどころに枡野さんの、この誘い文句に引き

込まれてしまった。








        角田光代さんて、クジゴジで仕事をしてるんだって。同世代の

        作家が、言いつけるように僕におしえてくれたことがある。朝

        九時から夕方五時まで、まるでサラリーマンのような規則正しさ

        で仕事をするのだという。それは尋常じゃない。たしかに馬鹿

        かもしれないと僕は思った。サラリーマンみたいに仕事ができ

        ないから物書きになるというのが、ふつうなんじゃないか。

                        解説ーー馬鹿    枡野 浩一






枡野さん、そうなんですよ。

角田さんは「クジゴジなんです。」

北九州であった井上荒野・川上未映子との3人のトーキングで、わたしは

知ったばかりだ。

理由はいたって単純(笑)。5時からは飲みたいから……だって。







この文庫本は、エッセイ集かと思いきゃ、短篇小説集だったという

アクシデント(笑)にもめげず、読了。






        生きるうえで大事なことは勇気と興奮



        過去は掌をすべりおちる液状の砂


すてきなことばが、鏤(ちりば)められている。

                2014年3月25日 第12刷  560円+税

 

 

2017年6月18日 (日)

「新緑の唇を持て」竹中 優子

短歌・詩・エッセイ・短編小説を収める竹中優子さんの

個人誌「新緑の唇を持て」を読んだ。

この冊子のタイトルは、短歌のタイトルからとられている。






     ペットボトルを逆さに拾う薄青きひかりの中にあなたを許す

     全身が耳になる夜 嫉妬という乳白色の石を吐き出す

     唇にも波があること 聞こえないと言えばあなたは揺れた目をする

     許すね、と口を動かす石鹸の匂いが溢れ出てくる口を

     太りすぎた夏の蟻たち 唇にごく薄き影あなたはしまう

     朝に降る雨のあかるさ眺めてるとき そういえば友達減ったな

     犬が鼻を寄せるみたいに鍵を開ける 雨のにおいが鍵からもする

     秋のコートをきれいに掛ける風のなか会いたいひとを低く問われて

     見るときに見下ろすことになる他人(ひと)の靴のかたちよ また

     少し見る

     新緑の唇を持て すずやかなあなたの睫毛をちぎる真夜中

               「新緑の唇を持て」48首より    竹中 優子







この冊子の表紙には、真っ赤な唇が描かれている。

光沢を持つ唇の横には、なんと、蟻が一匹。

この斬新かつセクシャルな装幀に優子さんの才気が迸る。

(あら、裏表紙にも真っ赤な唇が……)

彼女の独走ぶりがこの冊子からも窺える。

東直子さんとのトーク(「短歌の世界を覗いてみよう」)でも感じたのだけど、

堂々としており、自分をしっかり持っているところが魅力でもある。

歌の1首1首についてわたしがとやかく言うのはよそう。

竹中優子は、このまんま走り続けるだろう。

                        平成29年5月7日発行

 

 

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11日の日曜日に「福岡ポエイチ」に行った。

17時からの東直子さんと竹中優子さんのトーク「短歌の世界を覗いてみよう」

を聴くためだった。

会場のリノベーションミュージアム冷泉荘は、わたしにとって懐かしい場所

でもあった。と言うのは、ここの「アトリエ穂音(ほおん)」(Aー31号)は、

姪っ子が一時借りていた。

日本画の講師、比佐水音(ひさ・みお)さんと、姪の名前、美穂をとってその

アトリエは「穂音(ほおん)」と名付けられた。





入居する時は部屋のリニューアルも比佐さんと姪が壁塗りからした。

(入居祝いや個展などで何度か訪れた部屋である。)

比佐さんは日本画で姪は創作書道?みたいなことをしていた。

比佐さんは今もこの「穂音(ほおん)」をアトリエにしている。

姪は現在、山口に住んでいる。





「穂音(ほおん)」を覗いたら、比佐さんがいらして、ご挨拶が出来て良かった。

比佐さんは日本画初歩教室・日本画制作教室・自由制作や個人レッスンの

講師をしている。プロの日本画の先生であられる。




2017年6月15日 (木)

歌集『岸』 岩尾 淳子 ながらみ書房

2012年から2016年までの、354首を収めた著者の第2歌集。

 

     じんべえ鮫のようなる雲がしばらくを葛城山の山稜にあり

     岸、それは祖母の名だったあてのなき旅の途中の舟を寄せゆく

     ぼんやりと牛蒡を削いでいるうちに夕鵙にでもなれやしないか

     人まえで声あげ泣きしあのときのわたしは空の青痣のよう

     子を産んだ朝もあったな母がいて青鷺みたいにわたしを見てた

     紐育・倫敦・そして巴里だより まだ原発はどこにもなかった

     チェロケースを抱えた人が乗ってくる神戸線には冬の匂いす

     カステラのうすがみ剥がすひるさがり多幸感ってこんな感じか

     筆先が紙にひらいてゆくように思いを声にすればよかった

     ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて







歌集のなかから10首を選んでみた。岩尾さんの歌はどちらかといえば

淡い。淡いというより、水にたとえると秋の渓谷のせせらぎのような清冽さを

感じる。

1首目の雲の比喩は誰もよくやるのだが、「じんべえ鮫」が効果的。そして、

固有名詞の「葛城山」が所を得ている。

2首目は、歌集のタイトルになった「岸」。それは祖母の名前というのがいい。

そういえば、装幀もこの歌集の雰囲気を実によく表していた。

3首目・5首目、ともに1首のなかに「夕鵙」・「青鷺」と鳥の名前が入る。

3首目は、台所でぼんやりと牛蒡の笹掻きをしている作者。こころ此処に

在らずのような風情だが、下句への転換が面白い。

そして、5首目の母を「青鷺みたいに」とする発想の斬新さ。岩尾さんの発する

ことばには詩情がただよう。


8・9・10首目と口語調の普段着のような感じでうたわれており、作者の心と

ことばに乖離がない。「冷たい水を飲ませてくれて」「ありがとう」って、作者に

お礼を云いたくもなったりしている。(笑)


第1歌集はたぶん『眠らない島』だったと思うのだけど、あの歌集は鑑賞が

難しかった。岩尾さんを個人的に知らないということもあったけど……

このたびの第2歌集の『岸』の方が何倍も良いように感じた。今回だって

岩尾さんのことをそんなには知らないのだが、歌集全体から伝わってくる

詩情やことばが作者の本質を具現していたようだ。(妄言多謝)






                      2017年6月9日発行  2500円+税

 

2017年6月13日 (火)

歌誌『はつか』 旧仮名・若手歌人の……(続)

昨日に続いての『はつか』の紹介。

特集③には「編集長推薦 いま読みたい旧かな歌人」の8名の作品が掲載

されている。





その前に、この歌誌の『はつか』は、古語の「はつか(僅か)」であろうか。

「わずか」とか「いささか」の意であり、山中智恵子の歌に「恍としてうぐひす

鳴くをこのゆふべあはれはつかに雪降りにけり」がある。

(この冊子は、平仮名で書かれているけど、二十日(はつか)では

ないよね?)

そういえば、門脇篤史さんの歌「五十首抄」の中に「はつか」のことばが

つかわれていた歌があった。

       臨時記号。 雨に降られて日常ははつかに移調するやうに濡る

                              門脇 篤史「五十首抄」より







「編集後記」(門脇篤史)によると、この冊子を作った動機というか、企画の

原点が綴られている。

      旧仮名に焦点を絞って冊子を作ってみたい。もしかしたら、そこから

      私たちが旧仮名で作歌する理由のようなものを読み取れるかも

      知れない。ーー略}

旧仮名で作歌する理由のようなものを読み取れる、ことが出来たのかどうか

歌を紹介しよう。








     わがくちのなかへ這入りしあの舌をおもひてざりり梨を撫でをり

                            「奇形果」 碧野みちる

     
     おたがひに口に飼つてるくらやみを交換しあふ行為でせうか

                        「旧かなづかひ」 有村 桔梗


     思ひ切つて近づいていつててのひらで撫でれば柔らかい山肌よ

                           「ゆめゆめ」 飯田 彩乃


     噴き上がるみづのゆたけさ曲面を雨繊(ほそ)く垂る、くちびるぬぐふ

                              「戴冠式」 漆原 涼


     白線のうちがはにゐて花ふぶき 自由と弱さを試されてゐる

                         「試されてゐる」 太田 宣子

     
     咽喉(のみど)よりとび去りしつぐみただきみの変声期前のこゑの

     ききたし                 「きりぎしの夜」 楠 誓英


     冬に来る息の暴走 足掻いても足掻いてもなほ我といふ森

                              「宝物」 濱松 哲朗


     午過ぎて手水のみづのおのづから渇きたる手をなほひらきゐつ

                              「六地蔵」 山下 翔




いずれの歌も旧仮名遣いが生かされている。

口語文語の混交調はあるものの、これとて今では若い歌人のみならず、

むしろ高齢者の方が自信(?)をもって使っているようにも思える。







この冊子の巻末に各自の旧かな使用率を掲載していたのは参考になった。

旧仮名遣いは、ずっと、100%というかたもおり、確固たる意志を感じたり

もした。



そういえば、わたしなどは第二歌集から旧仮名に変えたものだ。

人生上の転機でもあったし、新仮名遣いでは気持ちが生々しくも

表出しそうでこわかった。文学的理念などという確たるものではなかった。

おお、なんということだ(笑) 

旧仮名遣いをヴェールにしようと企んだのでもないが……

 

 

 

 

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