書籍・雑誌

2017年6月20日 (火)

『季刊午前』 第55号 2017

「特別企画『季刊午前』四半世紀を超えて」が組まれている。

       ーー略 ところで貨幣とはフィクションなのだろうか。想像の

       産物なのだろうか。ーー略


       --略 神話が現実を変えるのである。しかも「あっという間」に。

       神話とはフィクションであり、構想され、創作されるものである。

       ーー略          「フィクションの可能性」    片山恭一



片山恭一氏の文章は、示唆に富むものながら、哲学的?過ぎて、わたし

自身の理解の届かないところがあり、難儀(笑)をした。

(そういえば、10年以上前のことであるが、「未来福岡歌会」に片山氏をお招

きしたことがある。Kさんの伝(つて)によるものだった。

短歌の批評をして下さり、懇親会にも出席して下さった。その節は会費まで

払って下さり、ほんとうに恐縮してしまった。)


        今ならわかる。これは、ドア・イン・ザ・フェイスというテクニックで

        ある。最初に大きな要求を出しておいて譲歩したように見せ、

        結局思い通りに人を動かす。
                        「北川晃二先生のこと」 原口真智子

『季刊午前』の前身である『午前』の牽引者であった北川晃二氏のことを

原口真智子さんの文章は、氏を偲びつつ、師に寄せるひたむきな思いが

綴られていた。「北川先生は、いまだ私の人生の北斗なのである。」と結ばれ

ている。






この第55号には、4月にお亡くなりになられた宮本一宏氏の「追悼」も編まれ

ている。橋本明氏の「卯の花の咲く頃に」、坂口博氏の「修羅を生きて」を

熟読。橋本氏の「訃報はいつも突然に、である。」の言葉に納得。文学散歩

の写真が一葉掲げられていたが、その中にS・Tさんの姿も見える。彼女から

頂いた宮本先生の著書2冊は今もわたしの書棚にある。





       『近代詩人の内景(発見と追跡)』 桜楓社 1984年  宮本一宏

       『北原白秋(物語評伝)』 桜楓社 1986年    宮本一宏



書棚から取り出してみたら、中からはらりと手紙が落ちてきた。

「でも胸の内にはあれこれと書きたいことが渦巻いております。書きたい

ということと、書けるということは別のもののようですね。」和柄の便箋に

書かれたことばにS・Tさんの当時の焦燥感が伝わってくる。







さて、さて、この号の詩や小説に触れたかったが出掛ける時間が迫ってきた。





昨夜、読んだ田島安江氏の「紫の花に」には、中城ふみ子の『乳房喪失』や

渡辺淳一の小説『冬の花火』がちらりと出てくる。主人公の「みちこ」は、新聞

に投稿をしている短歌を詠むひとなんだ。そして、その母親も……

               


               平成29年6月20日 季刊午前同人会  800円+税

 

2017年6月19日 (月)

『だれかのいとしいひと』 角田 光代 文春文庫

ふらりと立ち寄った書店で、ふらりと買ってしまった文庫本。

平仮名ばかりのタイトルがいい。

薄そうだし、すぐ読めそうだ。

そして、何より何より購求を誘ったのは、解説の歌人の枡野浩一。

冒頭のことば「角田光代のことは、好きになったばかりだ。」と来る。

「え、何? それ。」ってたちどころに枡野さんの、この誘い文句に引き

込まれてしまった。








        角田光代さんて、クジゴジで仕事をしてるんだって。同世代の

        作家が、言いつけるように僕におしえてくれたことがある。朝

        九時から夕方五時まで、まるでサラリーマンのような規則正しさ

        で仕事をするのだという。それは尋常じゃない。たしかに馬鹿

        かもしれないと僕は思った。サラリーマンみたいに仕事ができ

        ないから物書きになるというのが、ふつうなんじゃないか。

                        解説ーー馬鹿    枡野 浩一






枡野さん、そうなんですよ。

角田さんは「クジゴジなんです。」

北九州であった井上荒野・川上未映子との3人のトーキングで、わたしは

知ったばかりだ。

理由はいたって単純(笑)。5時からは飲みたいから……だって。







この文庫本は、エッセイ集かと思いきゃ、短篇小説集だったという

アクシデント(笑)にもめげず、読了。






        生きるうえで大事なことは勇気と興奮



        過去は掌をすべりおちる液状の砂


すてきなことばが、鏤(ちりば)められている。

                2014年3月25日 第12刷  560円+税

 

 

2017年6月18日 (日)

「新緑の唇を持て」竹中 優子

短歌・詩・エッセイ・短編小説を収める竹中優子さんの

個人誌「新緑の唇を持て」を読んだ。

この冊子のタイトルは、短歌のタイトルからとられている。






     ペットボトルを逆さに拾う薄青きひかりの中にあなたを許す

     全身が耳になる夜 嫉妬という乳白色の石を吐き出す

     唇にも波があること 聞こえないと言えばあなたは揺れた目をする

     許すね、と口を動かす石鹸の匂いが溢れ出てくる口を

     太りすぎた夏の蟻たち 唇にごく薄き影あなたはしまう

     朝に降る雨のあかるさ眺めてるとき そういえば友達減ったな

     犬が鼻を寄せるみたいに鍵を開ける 雨のにおいが鍵からもする

     秋のコートをきれいに掛ける風のなか会いたいひとを低く問われて

     見るときに見下ろすことになる他人(ひと)の靴のかたちよ また

     少し見る

     新緑の唇を持て すずやかなあなたの睫毛をちぎる真夜中

               「新緑の唇を持て」48首より    竹中 優子







この冊子の表紙には、真っ赤な唇が描かれている。

光沢を持つ唇の横には、なんと、蟻が一匹。

この斬新かつセクシャルな装幀に優子さんの才気が迸る。

(あら、裏表紙にも真っ赤な唇が……)

彼女の独走ぶりがこの冊子からも窺える。

東直子さんとのトーク(「短歌の世界を覗いてみよう」)でも感じたのだけど、

堂々としており、自分をしっかり持っているところが魅力でもある。

歌の1首1首についてわたしがとやかく言うのはよそう。

竹中優子は、このまんま走り続けるだろう。

                        平成29年5月7日発行

 

 

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11日の日曜日に「福岡ポエイチ」に行った。

17時からの東直子さんと竹中優子さんのトーク「短歌の世界を覗いてみよう」

を聴くためだった。

会場のリノベーションミュージアム冷泉荘は、わたしにとって懐かしい場所

でもあった。と言うのは、ここの「アトリエ穂音(ほおん)」(Aー31号)は、

姪っ子が一時借りていた。

日本画の講師、比佐水音(ひさ・みお)さんと、姪の名前、美穂をとってその

アトリエは「穂音(ほおん)」と名付けられた。





入居する時は部屋のリニューアルも比佐さんと姪が壁塗りからした。

(入居祝いや個展などで何度か訪れた部屋である。)

比佐さんは日本画で姪は創作書道?みたいなことをしていた。

比佐さんは今もこの「穂音(ほおん)」をアトリエにしている。

姪は現在、山口に住んでいる。





「穂音(ほおん)」を覗いたら、比佐さんがいらして、ご挨拶が出来て良かった。

比佐さんは日本画初歩教室・日本画制作教室・自由制作や個人レッスンの

講師をしている。プロの日本画の先生であられる。




2017年6月15日 (木)

歌集『岸』 岩尾 淳子 ながらみ書房

2012年から2016年までの、354首を収めた著者の第2歌集。

 

     じんべえ鮫のようなる雲がしばらくを葛城山の山稜にあり

     岸、それは祖母の名だったあてのなき旅の途中の舟を寄せゆく

     ぼんやりと牛蒡を削いでいるうちに夕鵙にでもなれやしないか

     人まえで声あげ泣きしあのときのわたしは空の青痣のよう

     子を産んだ朝もあったな母がいて青鷺みたいにわたしを見てた

     紐育・倫敦・そして巴里だより まだ原発はどこにもなかった

     チェロケースを抱えた人が乗ってくる神戸線には冬の匂いす

     カステラのうすがみ剥がすひるさがり多幸感ってこんな感じか

     筆先が紙にひらいてゆくように思いを声にすればよかった

     ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて







歌集のなかから10首を選んでみた。岩尾さんの歌はどちらかといえば

淡い。淡いというより、水にたとえると秋の渓谷のせせらぎのような清冽さを

感じる。

1首目の雲の比喩は誰もよくやるのだが、「じんべえ鮫」が効果的。そして、

固有名詞の「葛城山」が所を得ている。

2首目は、歌集のタイトルになった「岸」。それは祖母の名前というのがいい。

そういえば、装幀もこの歌集の雰囲気を実によく表していた。

3首目・5首目、ともに1首のなかに「夕鵙」・「青鷺」と鳥の名前が入る。

3首目は、台所でぼんやりと牛蒡の笹掻きをしている作者。こころ此処に

在らずのような風情だが、下句への転換が面白い。

そして、5首目の母を「青鷺みたいに」とする発想の斬新さ。岩尾さんの発する

ことばには詩情がただよう。


8・9・10首目と口語調の普段着のような感じでうたわれており、作者の心と

ことばに乖離がない。「冷たい水を飲ませてくれて」「ありがとう」って、作者に

お礼を云いたくもなったりしている。(笑)


第1歌集はたぶん『眠らない島』だったと思うのだけど、あの歌集は鑑賞が

難しかった。岩尾さんを個人的に知らないということもあったけど……

このたびの第2歌集の『岸』の方が何倍も良いように感じた。今回だって

岩尾さんのことをそんなには知らないのだが、歌集全体から伝わってくる

詩情やことばが作者の本質を具現していたようだ。(妄言多謝)






                      2017年6月9日発行  2500円+税

 

2017年6月13日 (火)

歌誌『はつか』 旧仮名・若手歌人の……(続)

昨日に続いての『はつか』の紹介。

特集③には「編集長推薦 いま読みたい旧かな歌人」の8名の作品が掲載

されている。





その前に、この歌誌の『はつか』は、古語の「はつか(僅か)」であろうか。

「わずか」とか「いささか」の意であり、山中智恵子の歌に「恍としてうぐひす

鳴くをこのゆふべあはれはつかに雪降りにけり」がある。

(この冊子は、平仮名で書かれているけど、二十日(はつか)では

ないよね?)

そういえば、門脇篤史さんの歌「五十首抄」の中に「はつか」のことばが

つかわれていた歌があった。

       臨時記号。 雨に降られて日常ははつかに移調するやうに濡る

                              門脇 篤史「五十首抄」より







「編集後記」(門脇篤史)によると、この冊子を作った動機というか、企画の

原点が綴られている。

      旧仮名に焦点を絞って冊子を作ってみたい。もしかしたら、そこから

      私たちが旧仮名で作歌する理由のようなものを読み取れるかも

      知れない。ーー略}

旧仮名で作歌する理由のようなものを読み取れる、ことが出来たのかどうか

歌を紹介しよう。








     わがくちのなかへ這入りしあの舌をおもひてざりり梨を撫でをり

                            「奇形果」 碧野みちる

     
     おたがひに口に飼つてるくらやみを交換しあふ行為でせうか

                        「旧かなづかひ」 有村 桔梗


     思ひ切つて近づいていつててのひらで撫でれば柔らかい山肌よ

                           「ゆめゆめ」 飯田 彩乃


     噴き上がるみづのゆたけさ曲面を雨繊(ほそ)く垂る、くちびるぬぐふ

                              「戴冠式」 漆原 涼


     白線のうちがはにゐて花ふぶき 自由と弱さを試されてゐる

                         「試されてゐる」 太田 宣子

     
     咽喉(のみど)よりとび去りしつぐみただきみの変声期前のこゑの

     ききたし                 「きりぎしの夜」 楠 誓英


     冬に来る息の暴走 足掻いても足掻いてもなほ我といふ森

                              「宝物」 濱松 哲朗


     午過ぎて手水のみづのおのづから渇きたる手をなほひらきゐつ

                              「六地蔵」 山下 翔




いずれの歌も旧仮名遣いが生かされている。

口語文語の混交調はあるものの、これとて今では若い歌人のみならず、

むしろ高齢者の方が自信(?)をもって使っているようにも思える。







この冊子の巻末に各自の旧かな使用率を掲載していたのは参考になった。

旧仮名遣いは、ずっと、100%というかたもおり、確固たる意志を感じたり

もした。



そういえば、わたしなどは第二歌集から旧仮名に変えたものだ。

人生上の転機でもあったし、新仮名遣いでは気持ちが生々しくも

表出しそうでこわかった。文学的理念などという確たるものではなかった。

おお、なんということだ(笑) 

旧仮名遣いをヴェールにしようと企んだのでもないが……

 

 

 

 

2017年6月12日 (月)

歌誌『はつか』 旧仮名・若手歌人の連作

昨日、手にした『はつか』。

これは、同人誌なのか、単発的な歌誌なのか、ちょっと不明。

門脇篤史の「五十首抄」と、龍翔の「母と暮らせば」(第7回中城ふみ子賞佳作

受賞作品)の50首が掲載されている。

      置き傘をときどき使ふ傘であることを忘れてしまはぬやうに

      権力の小指あたりに我はゐてひねもす朱肉の朱に汚れをり

      今はなき臨終図鑑の上巻を誰に貸したか思ひ出さない

      故郷との距離思ひをりひとり立つコイン精米機の薄明かり

      こんなにも真白きイオンの片隅に喪服は黒く集められをり

                               「五十首抄」門脇篤史






「門脇さんの歌・雑感」で、大辻隆弘氏は2首目の歌を次のように述べる。






      ……略 権力の構造に対する視線がきわめてクールで知的。

     「朱肉」という言葉は日常用語だが、このように短歌定型のなかに

     収められると急に「赤い肉」という象徴性を帯びてくる。彼の指に

     ついた「朱」は当然、民衆の「血」を想起させる。……略

「視線がきわめてクールで知的」というのは首肯できる。だが、朱肉の「朱」が

民衆の「血」を想起させるだろうか?10人いたら10人の読みがあってしかる

べきところだ。しかし、このような深読みというか、知的な、高尚な読み(?)が

門脇氏の歌をかえって窮屈なものにしてしまうのではないかと危惧する。

3首目の歌は、結句の「思ひ出さない」に注目。「思ひ出せない」のではなく、

あえて、作者は思い出さないようにしているのだろうか。ふつうだったら、

「誰に貸したか思ひ出せない」という流れになる筈なのだが……




門脇さんの生活、〈生〉が、虚飾なくうたわれており、「子をなさぬ理由をけふ

も問はれたり 梅雨の晴れ間に散歩に行かう」など、せつなくなるほどの素直

さがいい。

     ただいまと言へばおかへりと言ふ母は土嚢のやうに寝込みていたり

     コンソメは日干し煉瓦のやうなれど水に落とせば溶けて消え去る

     いつどこで泣きたくなるか分からずに今日はたまたまバスタブのなか

     カレンダーの日付に丸を付けてゐる母の朱色は痛さうな色

     心臓に季節外れのあぢさゐのぼわつと咲いたやうに苦しい

                           「母と暮らせば」 龍翔








病気になった母との生活、その戸惑いや不安が伝わってくる一連である。

比喩使いの名手でもあるが、2首目の「日干し煉瓦」や、5首目の「季節外れ

のあぢさゐ」など、独特な比喩をその1首が引き立つように工夫されている。

工夫というより、龍翔さんの自然に湧き出た比喩のようにも思える。




大仰な言い回しもなく、事物を丁寧に掬い取り、描いている50首の連作に

拍手を送りたい。








ところで、この冊子は旧仮名遣いで作歌する若手歌人8名を起用している。

編集長(門脇篤史)推薦の8名の作品については、次回で触れたい。

ちなみに、わたしの廻りの人たちの旧仮名遣いを調べたら、30%だった。

10人に3人くらい。「未来」の結社の「夏韻集」(大辻隆弘選歌欄)は、45%

くらいだった。

と、いうことは、年齢に比例するのではなく、若い人ほど旧仮名遣いに

親しんでいるということかしら。

まぁ、大辻さんが旧仮名遣いだから、ということがあるかもしれない。






              

          2017年1月発行    企画  門脇篤史・楠誓英・龍翔



                             次回へ、つづく……

 

2017年6月 9日 (金)

『もしもし、運命の人ですか。』 穂村 弘  角川文庫

例によって例のごとく穂村節(笑)の、文章に催眠にかかりそうに

なりながらも、読了。

瀧波ユカリさんの「ダメさ余って可愛さ百倍」と、

ハルカさんの「パンクと、恋と、穂村弘」のお二人の解説が、スルドイ。

もうこの解説を読んだだけで、穂村弘のことが、この文庫の内容のことが、

99%までわかっちゃう仕掛けなのだ。




まぁ、それはおくとして、穂村弘ファンにとってこの書は少々きつい(?)

だって、……(この、「だって」と言うのはやめよう。)





      「いいひと」との穏やかな関係には非日常性が乏しい。

      日常に限りなく近い恋には恋の醍醐味がないというわけだ。ーー略


      生の実感は死に近づくことによって得られる。ーー略

                              「魔女と恋に堕ちる理由」






なかでも「心の地雷原」の章は、穂村弘の等身大(って云うても、知らんけど)

の、精神の在りようが感じられる。繊細で、潔癖で、それでいて不遜(笑)な

穂村サンが垣間見える。




あぁ、また、穂村弘本を読んでしまった。






                平成29年1月25日初版発行  560円+税

2017年6月 8日 (木)

歌集『海の窓』 中塚 節子  現代短歌社

岡山市在住の「朔日」所属の第一歌集。

万葉集にも詠まれている古い港町の「牛窓」。

牛窓で生まれそ育った作者は「あとがき」に、牛窓は原点とも記している。

現在では牛窓は「日本のエーゲ海」とも呼ばれ、マリンスポーツが盛んで

あり、オリーブ園のある町でもある。

   

       生くるといふことの重みを思ひをり『忍びてゆかな』の津田治子読みて

   紺浦(こんのうら)、綾浦などと美しき字名(あざな)を持てり牛窓(うしま

   ど)のまち

   日に一度われが決めたるわれの樹の下に来てしばし木の声聴かむ

   年頭にまづ書いておくわたくしの延命治療はしないでほしい

   別れといふはかくもあつけないものなのか緑葉に降る雨を見てゐる

   漆黒の夜の岬を越えてこしミホの衣につく夜光虫あまた(加計呂麻島)

   ふる里に万葉の歌一首ありて潮騒の島響(とよ)みと詠まるる

   何もせずにゐるのは性(しやう)に合ひません小坊主さんのやうに草ひく

   わたくしでよければ聴かせてもらひませう聴くのみになるやもしれぬけど  

   凡なるは凡なるままでよしとする額紫陽花(がくあぢさゐ)の青の深みて








1首目の『忍びてゆかな』、6首目の「ミホの衣につく夜光虫」などから、作者が

読書好きなことが窺える。ことに1首目の「生くるといふことの重みを」津田

治子の〈生〉から感じとっているあたり、共感する。

3首目の歌には、樹木に寄せる慰謝のこころが感じられる。

心の平穏を保つひとつの方法として、作者は日に一度「木の声」を聴いている

のだろう。

2首目と7首目は、作者のふる里の牛窓である。その牛窓をイメージしてこの

歌集のタイトルは『海の窓』と名付けられたのであろう。7首目には詞書として

万葉集の一首が添えられている。

    牛窓の浪の潮騒島響(とよ)み寄さえし君に逢はずかもあらむ

                      作者未詳  (巻十一  二七三一)






8・9・10首目の歌はかるがると詠まれている。

8首目の「小坊主さんのやうに」の比喩のユニークさ。9首目の自然体。

10首目の上句の楽天的な吐露。

肩肘張らずにうたっているところがなんともいい。


外塚喬氏の序文があたたかい。

 

                     2017年5月5日発行  定価2500円








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午前中に歯科の定期健診。

治療の時ばかりでなく、こうして、定期健診をしないといけないのだが、

ついつい後廻しになってしまう。

定期健診をしたので、一つ大仕事(笑)をしたみたいに、気持ちがいい。


朝顔と風船蔓を種子から撒いて育てている。

植え替えをすませ、そろそろ支える棒や、網を張らなければなるまい。

2017年6月 7日 (水)

歌集『晩夏の海』 岩崎堯子 六花書林

2009年に「短歌人」に入会した著者の第一歌集。

小池光の「これからの日を」の跋文が収められている。





     片胸となりし姉の前に立ち「行くわよ」と言ひて湯殿に入りつ

     けふこそは逸脱せむと五万円財布に入れて家を出でしが

     濡れたシャツ脱ぐときのやうな終りかた たまにはこんな一日もある

     なにがなし怖ろしかりき母の部屋の枕にのこる深きくぼみが

     孤独死でない死がこの世にあるやうな言ひかた 月下美人が咲きぬ

     電線に切らるる月はせつなくて空き地へ走るこよひ十五夜

     念のためと言はれ膠原病の検査受く 少しづつ病気にしてゆく病院

     とある朝 あるではないか軒下にシャンデリアのごとき足長蜂(あしな

     が)の巣が

     カサブランカ買ひて帰りぬ戦争がたうたうできる国になりたり

     たんぽぽぐみの行進はじまり孫がくる見たことのない怖い顔して



1首目、「片胸となりし姉」は、乳がんの手術で片方の胸をなくした姉であろう。

     その姉と温泉へ。ためらう姉をせきたてるように、湯殿に「行くわよ」と

     促す。妹(作者)の力強いことばは姉を動かす。

2首目、結句の「家を出でしが」のいいさしの言葉がその日の作者の行動を提

     示している。逸脱?できなかったんだね。



3首目、濡れたシャツを1日着ていたような日だったんだろうか。まぁ、そんな日

     もたまにはあるさ、と。




4首目、「深きくぼみ」に母の病の重さと、母の日日の苦痛をも感じとったのだ

     ろうか。せつない歌だ。

5首目、下の句の句跨りから、「月下美人が咲きぬ」の転換。上句に対しての

     いいようのない腹立ちを少しく緩和するような月下美人の出しかたで

    ある。



6首目、夜空を仰ぐのはわたしも好きだが、街の中ではマンションの林立やモ

     ノで遮られて儘ならないことが多い。「電線に切らるる」十五夜はせつ

     ないのだ。「空き地へ走る」。わたしも走る(笑)。



7首目、検査をすると、どこかしら、何かしらに引っかかることがある。早期発

    見ということが良いこともあるけど、病気にされてしまうような気もしな

    いでもない、思い。


8首目、まさかわが家に足長蜂の巣が。ありえないことと思いつつ、これが現

     実なのだ、おお、コワ。


9首目、日本の国は「戦争放棄」を掲げ、それを長年保ち続けてきたのではな

     いだろうか。それなのに、「戦争がたうたうできる国」になってしまった

     のだ。


10首目、いつも見る孫のやんちゃなひょうきんな顔でなく、「怖い顔」。他人の

     ように前を通り過ぎていく。やんぬるかな、と思いつつ、これは、孫の

     成長の証。

いずれの歌も「そうだ、そうだ」と納得できる。そして、作者の心根の深さ、

あたたかさがじわじわと伝わってくる。








                     2017年5月26日発行  2300円+税別






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昨日、福岡は梅雨入りしたので、今日は出掛けるのにいちばんお気に入りの

傘を差して出掛けた。

ところが、久留米で下車して電車のドアが閉まったとたんに手許に傘が

ないことに気付いた。「え、傘がない。わたしの傘がない。」





狼狽えてしまった。すぐに久留米駅の改札口の駅員さんに事情を話す。

その電車は荒尾が終点。荒尾に取りに行くか、着払いで送って貰う算段を

した。そして、ダイソーに行き、当座の傘を購入。

ところが、ケイタイに電話があり、荒尾で降ろすのを忘れたので、博多駅まで

傘は乗せますとのこと。





教室が終って博多駅まで直行。

ようやく、わたしの手許に傘が戻った。

(このわたしの傘はあろうことか、久留米から熊本の荒尾まで740円の

無賃乗車。そして、荒尾駅から博多駅まで1470円の、合わせて2210円の

無賃乗車なのかえ。笑)




帰りの電車では傘を2本提げて、忘れないように、居眠りしないようにした。

やれやれの梅雨の1日だった。

2017年6月 6日 (火)

『無韻を生きる』 三田村正彦歌集 短歌研究社

働く人の、働く男の人の歌が、キリリキリリと胸に突き刺さってきた一集で

あった。

 

     低き雲が街を圧殺するやうに人事考課を平準化した

     深夜まで人事パズルをはめ直す 類語辞典を捲る作業に

     残業は一人遊びかパソコンの脱力感が冴えてせまり来

     手から目へ指令は出した 稟議書が通つたあとの軽い目礼

     シースルーエレベーターに吊り上げてゆかれるやうな昇格は罠

     黄昏は空の涙かリストラの色に近いと誰かが言つた

     始まつたポスト争ひ黙殺の態度をもつて意思表示する

     吊革にすべてを託すこの身体 そんな上司に巡り合はない

     群れるのは嫌と言ひつつ飲み会は馴れ合ひだから欠かさずに行く

     俺にしか出来ない仕事なんてない わかつてゐても手を出す 愚か







「人事考課」・「稟議書」・「昇格」・「リストラ」・「ポスト争ひ」・「上司」等々。

それらの言葉から想像するのは、会社それも大会社?か、官庁に勤めて

いるのではないか、ということだった。(岡井隆氏の跋文でそのあたりのことは

少しく触れている。)






それにしても凄まじい。

ことに「プロパガンダ」の章は、読みながら胸が痛くなってしまった。

ヤワな精神では勤まらないし、忽ち〈鬱病〉になってしまいそうな職場である。

それでも働く。なんのために? 誰のために?

この『無韻を生きる』には、家族の影が薄い。

あえて家族をうたっていないのか、或いは、うたえない事情があるのか?は、

不明だが、父親を詠んだ歌はある。






     ジーンズのやうに馴染んだ父の声聞けなくなりて五年が過ぎぬ

     茶碗が四つのときは家族なり一つのときを孤独と言ふな

     まな板の静かに光る夏真昼一人のひとをただ思ふなり

     日曜の故紙回収車荷台から過去の一つがこぼれ落ちたり

     虫の音のかすかな雨の音に消ゆ 無言に生きる 無韻を生きる


孤独感の滲む歌である。

「冬の日の歯に染みとほるうがひ水生きてゐるとふことが大事だ」と、

うたうように、「生きてゐる」ということを実感できるような今日であり、

明日であってほしいと思う。


著者は「未来」の〈曲れる谿の雅歌〉(岡井隆選と編)に在籍している。





     

                     平成29年5月11日発行  2500円+税

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