書籍・雑誌

2017年8月22日 (火)

連載「世界を読み、歌を詠む」 坂井 修一  『短歌往来』

短歌関係の総合誌を年間購読していて、毎月楽しみに読んでいる。

このところ各誌それぞれ特集などに工夫をこらしており、読み応えがある。

その特集のことはさておいて、わたしがこのところ愛読している連載を

本日は、紹介したい。






『短歌往来』で連載が始まった坂井修一の「世界を読み、歌を詠む」

(9月号 ③回目)である。

文章の合間合間に書かれている坂井の動静(挙動)が、なんとも楽しい。

      
       『古事記』を読むならドブロクでもよいが、『聖書』はそうはいか

      ない。ミネラルウォーター(天然水)のペットボトルを冷蔵庫から

      取り出し、これを呑みながらあれこれ思いをめぐらすことになる。

と、いった〈ト書き〉的文章をはさみつつ進行してゆく。

歌の引用は井上法子の『永遠でないほうの火』の一首に移るのだ。

      
       こういうときは、先を急いではダメ。聖書と歌集を開きっぱなしに

      して、深呼吸する。そして、ミネラルウオーターを呑む。

考えつつ書き、書きつつ考える方法なのだが、この方法で思い出すのは、

岡井隆の『茂吉の歌私記』・『茂吉の歌 夢あるいはつゆじも抄』である。

九州の辺境で書きはじめたこの書は日記を盛り込みつつ、作品の読み

込みに全力を傾けている。

しかして、坂井修一のこの連載の副題が「ー楽しみと苦しみとー」とある

のは、意味深い(?)。

9月号の結語は以下であった。

      
      風呂からあがってパジャマを着て、再び本の山の中へと戻って

     ゆく。ジンとライムジュースを冷蔵庫から出して、混ぜ合わせ、

     ため息をひとつつく。洪水の後のノアの家族と動物たちに、老いた

     船長シド・ヨーハンに、そしてこの愚かな私に乾杯!

2017年8月21日 (月)

たましひのたとへば秋のほたる哉  飯田蛇笏

たましひのたとへば秋のほたる哉  飯田蛇笏

 

        --略

        たましひたましひ、とわたしはとなえる。たましひのたとへば

        あきのほたるかな。たましひのたとへばあきのほたるかな。

        たましひのたとへばあきのほたるかな。

         何回でもとなえているうちに、句の持つ意味ははるかなもの

        になり、音やかたちのつらなりだけが、となえる舌の上に残る

        ようなこころもちになる。  --略



川上弘美の第一エッセイ集『あるようなないような』の中に収められた

「近代俳句・この一句」の章の抜き書きである。

2002年の初版を買っているからたぶん読んだ筈、なのだけど。

偶々手に取ったら、また引き込まれて読んでしまった。

と、いうのも、その文章の続きに池田澄子さんの蛍の句が引用されている。

         じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

         --略

         じゃんけん、とわたしはふたたびとなえる。じゃんけんで

         まけてほたるにうまれたの。じゃんけんでまけてほたるに

         うまれたの。

          うまれたの、という声は、外からきこえる誰かの声である。

         たとえわたしの声でとなえていても、この句を最初にとなえた

         のは、ことなる誰かであったにちがいない。--略



川上弘美と俳句。

「俳句が好きでたまらなくなってしまった」川上弘美。

なんだか謎が解けてきた。

川上弘美の『おめでとう』(新潮文庫 平成15年)の解説を池田澄子さんが

書いているのも、そうか、そういう流れだった (? ) のかと。



cat     cat

そういえば、564ページの大冊の評論集が届いている。

「〈現在〉との批評的対話!」

生半可な精神では読めそうに、ない。



 

2017年8月17日 (木)

『まくらことばうた』 江田 浩司  北冬舎

某歌会の題詠が「枕詞のある歌」ということで、べんきょう(笑)している。


書棚を探すと『まくらことばうた』(北冬舎 2012年12月刊 1900円+税)

が目についた。栞文・日高堯子、島内景二、田野倉康一。

総歌数は666首。

いずれの歌にも「枕詞」が付いている。

いろは順に並べられており、

目次は、[い]のまくら」、[は]のまくら、[に]のまくら というふうに並んでいる。






読みながら、著者・江田浩司の熱量に舌を巻いている。

よくもまぁこれだけの枕詞をものにしたことだと。

江田浩司の一つの挑戦であり、その挑戦の成果はこの本書の読者には

ただちに伝わるだろう。



著者、江田浩司の造語的な「枕詞」はあるのだろうか。

たとえば、正岡子規が「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは

見れど飽かぬかも」(『竹の里歌』所収)のような、「天(あめ)」に

かかる枕詞「久方の」を「アメリカ」にかけているような際どい枕詞が。

      いはそそく垂水(たるみ)の岩の月光(つきかげ)に酔(ゑ)ひ

      酔(ゑ)ひて寒きパトス燃え立つ

      いつしばのいつとしもなき夢心地 幸ひ響け春雷家族


江田さんの歌らしさを纏っている のを、最初の方から選んでみた。




と言うのも、文語で枕詞をつかった歌は、作者の個性(極端に言えば

私性まで)が消えてしまうことだ。形式としての短歌は美しいが、

聖も俗も蔓延る現代の(現在の)世の中に生きているにんげんにとって、

果たして歌としてどうなのか ? という思いも兆す。






さて、某 歌会でどんな歌が飛び出すのか大いにたのしみである。

えっ、他人事じゃあない、枕詞のある歌をつくらなくちゃ。

 

2017年8月16日 (水)

『おめでとう』 川上弘美 新潮文庫

「よるべない恋の十二章」との紹介文が裏表紙に付く。

12の恋の物語である。




川上弘美の文章は、川上弘美固有の香り(空気)を纏う。

ことに、心理描写に長けている。

〈ことば〉の人らしく、日常の何気ない会話のなかに相手の心や表情を

読み取る。

そして、自己分析をする。







      未練というからには、未練を持つ状況を考えねばならぬ。

      未練とはつまり執着、「してはならぬ」のに、つい執着してしまう

      ことだろう。                 「天上大風」より





この人は短歌に向いているかも ? と、思ったりしてしまう。

(川上さんって、俳句をしているんだったかしら ? )

              ーー略

      会えば別れがくる。人の心は変わる。愛する最中での別れの

      予感。いや予感と言っては生温(なまぬる)い必ず別れがくると

      いう確信。もっと言えば、明日の期待を持つことで次の絶望が

      約束されることへのおそれ。各編に流れるものは、愛の不確かさの

      確かさである。--略

                          「解説」 より   池田澄子





おお、なんということか。

解説を俳人の池田澄子さんが書いている。

「アマリリスあしたあたしは雨でも行く」(『思ってます』 池田澄子句集

ふらんす堂刊)

大雨でもたとえ豪雨でも逢いに行くのは(深読み)池田さんの真骨頂。

その〈愛の達人〉 ? ? の、洞察力の見事な解説には痺れる。





それにしても、川上さんって、造語というか、すてきな言葉を

この書では、編みだしている。



たとえば「公式でない恋愛」。




いまメディアを騒がしている●●も「公式でない恋愛」って、

品良く(笑)、言ってほしいものだ。





                      平成15年7月   400円+税

 

 

2017年8月15日 (火)

『薬屋のタバサ』 東 直子  新潮文庫

過去を捨てて知らない町にやってきた山崎由実。

古びた薬局の手伝いとして住み込むことになった。

そこの店主、平山タバサ。独身・身寄りなし。何を考えているのか

わからないようなワケありの人物 (?)





小さな町の、古びた薬局の、店主・タバサと来歴不明の主人公の

山崎由実が繰り広げる物語である。






歌人・東直子が2009年5月に新潮社より刊行した小説だが、

読みすすめていくうちに、くらくらとするような才能を感じた。






       一緒に暮らすとは、

       恥ずかしいことを少しずつ分け合っていくことなのだと

       思う。

      
       時間が過ぎていく。今生きている人はみな、昨日よりも

       一日分、死に近づき、今日が終われば、また、一日、

       死に近づく。そしていつか、必ず肉体は「死」という、

       たった一文字で片づけられるもので終わりを迎えるのだ。


東直子の初の小説は2006年の『長崎くんの指』。

『いとの森の家』の単行本化は、2014年10月。

ちなみに、この『いとの森の家』は、坪田譲治文学賞を受賞している。

この『いとの森の家』より、5年も前に出版されているのが

『薬屋のタバサ』なのだ。






なんで、こんなことをくだくだと記すのかといえば『薬屋のタバサ』の物語の

展開というか、プロットが素晴らしい。並の(笑)作家が考えられないような

展開なのだ。

現実と、夢と、幻のなかを、浮遊するような、展開に先を急いで読みたく

なってしまう。(移動時間はおろか、この文庫は読み終るまで手放せ

なかった、よ。)






そして、結末は……

東直子は、ただもの(笑)じゃないと、確信した。









                        解説 藤谷 治

                        平成29年8月発行  520円+税

2017年8月10日 (木)

歌集『花桃の木だから』 中川佐和子 角川書店

2012年冬から2017年初春までの483首を収めた「未来」選者の第6歌集。

「歌を作ることは、その瞬間をとどめるのだということを、もっと身にしみて

思うようになった。」とあとがきに記す。





     大雪の屋根の鴉と目が合いぬそうかあなたも瀬戸際なのか

     大賀蓮の写真を飾る部屋のなか寂しいことはきらいではない

     カーナビは時に嘘つき目的地着いたと言えどまわりにあらず

     頑張り屋母は留袖のわれを見て母はその母思いおるらし

     〈飯上げの道〉をのぼれば地より湧く何があったかこれでいいのか

     生き延びることが大切ベッドより髪を垂らして娘は眠る

     玄関でおかあさあんとわれを呼ぶ給食袋を忘れたように

     底抜けに笑って笑って嫁にいく永遠という魔法かけつつ

     汝もまたさみしいだろう子の去りてキッチンウィッチをひとつ増やせり

     花桃の木だから母をわれへ子へ次へ百年(ももとせ)継ぎてゆくべし






いままで著者を子を持つ母親のひとりである、と意識したことがなかった。

それゆえにといおうか、このたびの『花桃の木だから』を読むにあたって、

わたしのなかの意識の変革(?) があったことを白状しよう。

母の母から、母へ。母から娘へと連綿と続く母性の系譜。

そんなことを改めて思った一集であった。


4首目の「留袖のわれ」は、子の結婚式の著者であろう。傍らに母親が居る。

その母親はきっと、母親を産んでくれた母を思っているだろう、と推測する。

5首目の歌から、たちどころに著者の代表歌「なぜ銃で兵士が人を撃つの

かと子が問う何が起こるのか見よ」(『海に向く椅子』より)を思い出した。


7首目の「おかあさあんとわれを呼ぶ」声は、幼い日の記憶をよび起こす。

下の句の「給食袋」という小道具の出し方が功を奏し、この歌を読んで

思わず涙ぐんでしまった。(わたし自身の思い入れもあるのだが、子どもの

名前を刺繍した給食袋を今も捨てることが出来ず、仕舞っているのだ。)

そして、8首目。

せつない母親の心。しかし、著者の懸命さが「永遠という魔法をかけつつ」に

よって、理性と知性を醸す。


母親としての歌ばかりの一集でもないのは勿論だ。

この歌集には「能登半島へ」や「与那国馬」や沖縄・北海道と旅の歌も多く

収められている。そして、著者の住んでいる横浜の歌もある。




しかし、何よりわたしがいいと思ったのは、家族の顔が見える歌集だったと

いうことであった。食事担当(?)の亭主の失敗ぶりがたのしくて、ほろ苦い。



10首目の「百年(ももとせ)継ぎてゆくべし」の意思が快い。






                      2017年7月22日  2600円+税

2017年8月 9日 (水)

『続々 花山多佳子歌集』 現代短歌文庫 砂子屋書房

『春疾風』(全篇)、『木香薔薇』(全篇)が収められている。

『木香薔薇』は、作者54歳から57歳の時期の作品だが、このたび読み

返しても、面白さは変わらない。

というか、当初読んだ時、印象深かった作品がそのまま記憶にあり、

同じ歌に付箋をしたのではないだろうか。


      わたしは何を送つたのだらう書いた手紙が机のうへに

      大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり

      疲れてるのがすぐわかるよと言ふけれどお前のせゐで

      不機嫌なだけ

      きもちわるい老人にきつとなるのだらう 他人のことは思ふことあり

      「いぬのきもち」といふ月刊誌よむ人のきもち思へばきもちわるくて

1首目、多忙を極めるゆえのミスであろうか。小島ゆかりさんの歌に、

「今日ひどくこころ疲れてゐるわれは買物メモをポストに入れぬ」(『馬上』 

現代短歌社刊 平成28年8月)があったが、くすっと笑いたくなる可笑しさで

ある。

2首目は、ことに印象深く、たびたび皆さんに引用された歌である。

4首目〜5首目、「きもちわるい」、「きもちわるくて」の歌。花山さんらしい ?

感受である。








巻末の「歌論・エッセイ」では、八角堂だよりの「新かな・旧かな」(1)〜(7)を

熟読。その(5)で、詩歌文学館での「詩歌のかな遣いーー『旧かな』の魅力」の

シンポジウムに触れて書かれていた。その中で松浦寿輝氏(詩人)が、

吉原幸子の詩「無題(ナンセンス)の「ゐる」という表記が「とても可愛いくて

魅力的」と発言したらしい。

その吉原幸子の詩なのだが、「ゐる」は旧仮名遣いをしているが、

促音は旧仮名遣いをしていない。(『吉原幸子詩集』 現代詩文庫 思潮社)

 

               風 吹いてゐる

        木  立ってゐる

       ああ こんなよる 立ってゐるのね 木

       風 吹いてゐる 木 立ってゐる 音がする

       よふけの ひとりの 浴室の

       せっけんの泡 かにみたいに吐きだす にがいあそび

       ぬるいお湯

       --略           無題(ナンセンス)の詩より







吉原幸子は「ゐる」・「ゐなくなる」・「ゐない」と「ゐ」のみの旧仮名遣いと

いうことが窺える。「立って」・「せっけん」などの促音は旧仮名遣いには

なっていない。

ちなみに、吉原幸子の他の詩の表記も調べてみた。

「さうして」・「うたふ」・「とほい」・「なめくぢ」・「やうに」などは旧仮名遣いに

なっているが、促音はいずれの詩でも新仮名表記のようである。

そんなことを思いながら、『続々 花山多佳子歌集』を読了した。







                   2017年7月28日 発行   1800円+税

 

 

 

2017年8月 6日 (日)

『とるにたらないものもの』 江國香織  集英社文庫

とるにたらないけれど、欠かせないもの。

気になるもの。

愛おしいもの。

忘れられないもの。

身近にある有形無形の60のものたちについて、綴ったエッセイ集。

        苦手なものの一つに愛称がある。

        どういうわけか昔から、人を愛称で呼ぶことができない。

                                       「愛称」

うん、うんと頷いてしまう。

かく云うわたしも人を愛称で呼ぶことができない。

年下の男性に「●●くん」なんて呼ぶことができない。

呼ぶことが出来ないばかりか、「●●くん」なんて呼んでいる人がいたら、

羨望とジェラシーと、いい知れぬモヤモヤ感が残る。






女性同士で「●●りん」とか「●●たん」とか呼んでいるのを耳にすると、

体が痒くなる。

若い女性、いや、中高生くらいなら、まだ許せる(笑)けど、40も50も過ぎた

おばさんに、そりゃあないでしょ、と思う。







わたしは、短歌関係だと、年上・年下関係なく、男性も女性も全て

「●●さん」付けで呼ぶ。






        

江國香織さんのエッセイ読んでいると、健康 ? な精神を感じてしまう。

健康な精神というのが正しいのかどうか分からないが、心情的にわたしは

共鳴する部分が多い。

たとえば「傷」の章で書かれていた、家庭のなかで「傷」と「汚れ」と

どちらが気になるかということ。



       

この「傷」の章で、考え込んでしまった。

「人は(たとえ一緒に暮らしていても)なんて違う考え方をするのだろう。」

と、記す。それは、夫(江國さんの)のことばの「汚れは、落とす気になれば

落とせるんだからほっといていいんだ。汚れることは避けられない。傷は

避けられるんだから、注意深くなりなさい。」だった。




        

       生きていれば、物も人も傷つくのよ。避けられない。それより

       汚れを気にした方が合理的でしょう ? 傷は消せないけど汚れは

       消せるんだから

       ーー略

       生活していれば、どうしたって傷つくのよ。壁も床も、

       あなたも私も

                                      「傷」






                     2010年11月 第3刷  420円+税
         

 

 

2017年8月 3日 (木)

ふらんす堂通信 153

昨日、池田澄子さんの「わが晩年などと気取りてあぁ暑し」の句を

このブログで紹介 ? したら、本日は、ふらんす堂から「ふらんす堂通信」が

届いた。

以心伝心 ? でもないのだろうけど、この冊子は一度読みたいと思って

いたので、うれしい。







今号の特集は4本もあり、第32回詩歌文学館賞受賞の後藤比奈夫句集の

『白寿』のことや、第8回田中裕明賞受賞の小津夜景句集『フラワーズ・

カンフー』の紹介が掲載されていた。






そして、さらにさらにうれしかったのは、池田澄子さんの新作「かなかな

しぐれ」が掲載されていた。これは、深見けん二氏と後藤比奈夫氏との

三人で兼題を出し合った競詠七句。





           

           さっき居た港はあそこ葛の花

           めがるかや古鏡は何も映らない

           しらたきに味沁むかなかなしぐれかな

                  「かなかなしぐれ」 七句より  池田 澄子


一句目の「葛の花」は秋の季語。

港は、横浜港。(だと思いたい。)

「港の見える丘公園」まで、のぼって来たのだろう、か。

二句目の「めがるかや」は、刈萱のことかしら  ?

めがるかや(女刈萱)、をがるかや(男刈萱)って、あるみたいだ。

古い鏡には何も映らない、という断定がこの作者らしい ?


三句目、「蝉しぐれ」だと、夏の季語だけど「かなかなしぐれ」は、秋だろうな。

「かな」のリフレインが効果的で、思い切ってこんなふうに使うと斬新になる。


池田さんのエッセイ「このごろのこと」も拝読。

「ーー略 私は無邪気を手放し始め、無常という思いを知ったようだ。」

結語がすてきだ。

2017年7月25日 (火)

歌日記『花眼の記』 道浦母都子 本阿弥書店

書棚の本を探していたら、ふと目にとまった道浦母都子のエッセイ集。

日記と短歌で綴られた歌日記である。

総合誌『歌壇』で2003年4月号から2004年3月号までの1年間連載された

ものである。

ぱらぱらと捲ってみると、歌が実にいい。

2003年といえば今から14年も前になるのだけど、現在の2017年に

置き替えてもちっとも古びていない歌たちである。

        歌つくり楽しかりしはいつまでか〈口語くらくら 文語しんしん〉

        世はなべて「あきまへんわ」の天(てん)こ盛(も)り然(さ)なり

        然なりと葭切が鳴く

        肩の力抜いて生きたら此の世とは草木(そうぼく)笑う朝明野

        (あさけの)のみち

道浦母都子の等身大の歌たちである。

気負わず、衒わず、自然体でうたわれた歌のかぐわしさ。

                          2004年5月5日 2300円+税

cat     cat

書棚で探していた本は、道浦母都子さんの『食のうた彩事記』(彌生書房

1995年10月)だった。そのエッセイ集には「鰻」のことが書かれてあり、

万葉集の一首が引用されていた。

そして、それに添えられていたエッセイと歌一首。いま読みかえしても涙が

滲んでくる。





       石麿(いわまろ)にわれ物申す夏痩に良しといふ物そ鰻取り

       食(め)せ         (巻第十六 三八五三)



       愛を得てまろらとなりし九州の女性(ひと)の声音(こわね)は

       蜜のごとしも               道浦 母都子








そういえば道浦母都子さんの次の歌集は、いつ出るのかしら。

読みたいなぁ。(待つとうけんね。)




本日は土用の丑の日、〈鰻〉を買いに行かなくちゃ。

(ウナギの嫌いなかたはウのつくものなら、いいらしいよ)

 

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