書籍・雑誌

2018年10月 1日 (月)

『牡丹の伯母』  米川千嘉子歌集  砂子屋書房

2015年から2018年春頃までの作品、440首を収めた著者の

第九歌集。

歌集名は〈「どなた」には人が人にもつなつかしさと懐疑あふれて 

牡丹(ぼうたん)の伯母〉の1首からとられている。



    見つからぬ子を捜すため潜水士となりたるひとの閖上の海

    戦中のかの子の恋を読みて書く こころに滝があるといひしかの子

    死者の気配つもるうつつを高橋和巳死んで高橋たか子は書けり

    デモをゆくひとりひとりよ母親はみどりごの髪の匂ひをかぎて

    失恋や水害の傷 痕跡をただ消すことが生ときみ言ふ

    旧姓を筆名として捨てざるを誤魔化しと思ひ来し三十年

    改札を出でくる背広の子に遇へり裸で産み何になれと育てし

    検索をしてからひとに会ひにゆくあはあはとただ確かむる会ひ

    友部正人「密漁の夜」たはやすく二十歳のこころが甦るは怖し

    母性は国家のものとして保護すべしとぞらいてう言へりスマホなき頃


1首目、東日本大震災で子どもをなくした人が潜水士となっている。

          閖上の海のなかにいるかもしれない子を捜すためにライセンスを

     とって。

2首目、岡本かの子の〈恋〉、かの子は「こころに滝がある」と書いていた

     のか。その本来の意味はさぐりかねるが、米川さんらしい気付きの

     言葉のようだ。

            かの子は「私は三つの瘤を持つ駱駝だ。一つは短歌、一つは

     仏教、一つは小説」ともいっていたようだ。

3首目、米川さんの歌を読んでいると〈知の領域〉に踏み込むような

     たのしさがある。たとえば、人の書棚を覗くようなたのしみでもある。

     高橋和巳が亡くなってから、その妻の高橋たか子が夫のことを

     書く。あるいは今の自身の思いを書き綴るのだろう。

     (高橋和巳の名前も、高橋たか子の名前も郷愁が湧く。)

5首目はせつない。「痕跡」を消すのにはいたみがともなう。

6首目、米川さんの本名は〇〇さん。まぁ、歌人であればどなたも知って

     いると思うけど、下の句の「誤魔化しと思ひ来し三十年」には深い

     内省がくみとれる。

     ところで、これを書いているわたし自身のことは…

     書こうとしたけど、やっぱり、やめとく。(笑)

7首目、「裸で産み」は、みんなそうなんだけど、「何になれと育てし」が

     米川さんらしい。育てている時は夢中だったし、先の先のことまで

     わたし自身は考える余裕もなかった。

           この歌「改札を出でくる」と いうシチュエーションがいい。

          ふだんの自宅で見る子とは違った客観的な目線だと思う。

9首目、キャーと声をあげそうになった。此処にもかつての友部フアンが

     いたことに。二十歳の心に戻りたくて、わたしの留守中に聴いて

     いるひとがわがやには居る。

     米川さんは「二十歳のこころが甦るは怖し」なんだ。

     しかし、意外や意外であった。

10首目、与謝野晶子と〈母性保護論争〉が始まったのは、大正7年。

      スマホどころか固定電話さえ珍しい時代だったのでは。

      平塚らいてうは、明治44年「青鞜」を創刊、その創刊の辞の

      「元始女性は太陽であった」が大きな反響を呼んだのだ。

      スマホがある時代になったとはいえ、女性は未だ太陽になれず

      に、齷齪しているような…


米川さんの歌に出て来る人名は眠っていた〈知〉を揺さぶる。

すてきな歌集だ。この『牡丹の伯母』は。

そう、若い人、口語短歌を作る人に薦めてみたい。

                            2018年9月8日

                             3000円+税

 

 

2018年9月25日 (火)

『編集者の短歌史』  及川隆彦   はる書房  

「短歌往来」の現・編集兼発行人である著者の編集者体験記。

本書は、1977年から1984年にわたって編集した総合誌「短歌現代」での

さまざまな経緯を綴ったものである。


読み進めながら、多くの方々が鬼籍に入られていることを度々思う。

8年に及ぶ編集者としての日々に会った歌人・詩人・作家に寄せる

エピソードに興味が尽きない。


読みはじめたら、途中でやめることが出来ず読了。

(現実逃避みたいに読書に溺れている。)



溺れているといえば「九段花見のエピソード」など、不謹慎ながら笑って

しまった。

石田さんがお堀に落ちたこの章は「短歌往来」に掲載した時も可笑し

かったが、この石田さんが「組合結成」を働きかけ、「断交」まで決行

したのか。


石田さんの筆名は〇〇〇さんで「未来」にも在籍していた筈。

そういえば、むか〜し、むか〜し、石田比呂志さんと殴り合いのケンカした

のも彼だったような  ? 。違うかな。小中英之さんもその場にいて、たの

しかったな、あの夜は。ケンカというよりじゃれあい、だから。


谷川健一氏が、編集者体験のことを書くように勧めてくださったのも

頷ける。貴重な体験であり、歌人や詩人、作家のエピソードは書き残して

おくことに意義があると思う。


第2弾は、「短歌往来」時代のことを書いてほしい。

1985年から現在までを。

でも、まだ早いかな。現役だし…


                         2000円+税

                         2018年9月8日


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昨夜の「中秋の名月」は、当地は曇り空で残念。

しかし、夜中(11:30頃) には、雲間からおぼろにみえた。

夕顔が3つ咲いていた。

 

2018年9月24日 (月)

歌集『何の扉か』 春日真木子  角川書店

「(略)九十歳を九〇歳と記せば十〇度目の零からのあらたな出発です。‥」

と、あとがきに記す著者の第十三歌集。

読みながら、背筋が真っすぐ伸びるような、いえ背筋を伸ばさないと

いけないような、著者の気骨がひしひしと伝わってくる一集である。

     潔く辞めむと言ふ父潔(いさぎ)わるく続けよと宣らす尾上柴舟

     さくら散る時間の光を曳きて散る 何の扉か開くやうなる

     昼月の浮力をわれに引き寄せむ杖ふりあげて今日の背伸びは

     花桃のひらきてわれは九〇歳 ああ零(ぜろ)からの出発の春

     投稿歌の「蝉」は自由に鳴かすべし「蝉」より「蟬」へ直しつづけつ

     雨か霰もしくは雪といふ予報されば出掛けむ槍と死降らねば

     はさはさと春の羽搏き鳩寿なるわが新春の胸を打つなり

     治療室のベッドは高くのぼれざり然(さ)らば背面跳びの術(すべ)にて

     法案の強行採択戦(をのの)きて坐る丸椅子 あ、背凭れがない

     降りたちて雀は歩く二歩三歩芋虫まるくころがしながら


こうして、書きうつしながらも、己の弱さや甘えが恥ずかしくなる。

3首目、「杖ふりあげて」って、凄くない? 。いつだったか歌会で Tさんが

「杖ふりあげて蜘蛛の巣払う」っていう歌を出していたのだけど、いっぺんに

Tさんが好きになった。おうちの玄関先の木々に蜘蛛が巣を張って邪魔に

なって通れない。手に持っていた杖で蜘蛛の巣を払ったのだって。Tさんは

やむにやまれず「杖ふりあげて」なのだけど、春日さんの「杖ふりあげて」は

健康志向だ。


4首目、「零(ぜろ)からの出発の春」なんて、うたえるのも気概。

そして、九十を「鳩寿」とうたう7首目、なるほど「キュウジュ」だ。この歌は

『短歌』の2017年の1月号に掲載されていた歌でしっかり覚えている。

なぜって、昨年の4月、北九州芸術祭短歌大会で「鳩寿の胸」の一連について

講演したからだ。この年の1月号は『歌壇』に8首、『現代短歌』に25首、そして

『短歌』に10首掲載。なんとまぁ精力的な90歳かと畏れいったものだ。


5首目、わたしも「蝉」と表記した歌があると、注意する。「蝉」は、口を二つ

付けてください、と。春日さんの「自由に鳴かすべし」のユーモアに笑って

しまった。


6首目は、槍か死が降らなければ「雨」だろうが「霰」だろうが「雪」だろうが、

出掛けるという気丈さが頼もしい。


8首目の「背面跳びの術(すべ)」も、おそろしい(笑)。わたしにはできない。

なんて、甘えてはいけないんだ。



9首目、10首目は何より好き。

「あ、背凭れがない」とか、「芋虫まるくころがしながら」なんて、そのまんま

だと思うけど、それが凡人には歌に出来ない。




そして、そして、掉尾の「長歌」、これが実にいい。

父君の「松田常憲」を偲び、丈高く、情感を込めて吟じている。

    反歌   ひと夏を父の食みにし鰻(うなぎ)らよ長歌百首に

          光添へませ




心が折れそうなひと、わたし高齢だからなんて弱音を吐くひとほど

この『何の扉か』を読んでほしい。

読めば、きっと、立ち直れる。


わたしも泣き言いうのは、やめなくちゃ。


                         2018年9月10日 初版発行

                         2600円+税

 

2018年9月17日 (月)

歌集 『谿泉』  玉井 清弘    角川書店

前歌集『屋嶋』にて、詩歌文学館賞と迢空賞を受賞した玉井清弘さんの

第九歌集。

玉井さんといえば「四国遍路のひと」というイメージである。

このたびの歌集では、四国八十八ヶ所歩き遍路の三度目にかかっていた

時期とか。三度目に挑戦している。そしてその三度目を結願。

四度目を歩き始めている。


わたしの受講生にも「歩き遍路」をしている人がいる。リピーターの一人

でもある。従ってそのかたの作る歌は遍路の歌が多い。

それはともかく玉井さんの歌を紹介したい。


     剪定に切られし枝に咲ける桐ほしくてならず遍路の途中

     若きらの働きている午後三時ごめんと言いてわれは晩酌

     ごみなるか服のほつれかわからねばひっぱりて見つずるずると糸

     白雲木咲けるを見よと呼びくれき その人逝きて季節また来ぬ

     おんかかかび唱えてめくれと言われたり地蔵菩薩の前掛けめくる

     頭(ず)の近く目白とびかいその上を山鳩のゆきその上みさご

     握りたる手塩の味のもどりくるおにぎりひらく萩のもとにて

     早口にしゃべりいるとき伊予弁のついとこぼれぬ風土の力

     梅雨どきの淡竹のうまし根元よく穂先もよろし酒の肴に

     ぷくぷくのうがいできるに〇つけぬ出来ぬ日そこに来ているらしい



もっともっと上げたい歌が多い。

歩き遍路の醍醐味にどっぷりつかりながらの日々。


1首目では、遍路の途中では桐の花を持っては歩けまい。

2首目は、羨ましいような午後三時を過ごしている。(「ごめん」では

      すまないな。(笑))

3首目、なんとも可笑しい。

4首目の「白雲木」は、エゴの花に似ている白い花。満開の時、

    遠くから見ると、白雲のように見えることから命名されたらしい。

5首目の「おんかかかび」は、お地蔵さまに真言で呼びかける時の言葉。

    この歌の詞書「紅葉の候にと残していた札所を巡拝し、四国八十

    八ヶ所歩き遍路三度目結願。」と記されている。

7首目、結句の「萩のもとにて」がいい。

8首目、まさに「風土の力」。わたしも此処、博多に50年以上暮らすとついつい

     博多弁が出てしまうのも「風土の力」かな。

9首目、「淡竹」は旨い。酒の肴になんて、いいねぇ。

     本歌集には、お酒の銘柄もあれやこれやと出てくるし、こんな

     暮らしが出来るのも健康あってのもの。

10首目、「ぷくぷくのうがい」ができるのも丈夫な歯があればこそ。



集中、後期高齢者なんていう歌もあったようだが、とてもいい暮らしかたを

している。だから、歌が澄んでいる。

『谿泉(けいせん)』 とは、谷間からわき出る水のこと。

その水のような一集であった。

そういえば、玉井さんは新仮名遣い。

これもこだわりがあるのだと思う。

この歌集は、ゼッタイ「歩き遍路」のKさんにに読んで貰いたい。


                           2600円+税

                           2018年9月14日 初版発行

2018年9月16日 (日)

歌集『戻れない旅』 生田亜々子   現代短歌社

「第5回現代短歌社賞」を受賞した生田亜々子の第一歌集。

この賞のご褒美は歌集を出してくれることだったか。

受賞作品と同じタイトルの歌集題となっている。

 

      
      流れとは逆に光は運ばれて汽水の川に潮上がり来る

      真夜中の静けさの中手を見ればさみしいこれは母と同じ手

      朝食にりんごを剥いて親子とはなりたくてなるものではなくて

      乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある

      子を探し子の中へ行き自らの中の子供をそっと放した

      捨てられぬ記憶を持ったわたくしのなにかが夜の底まで沈む

      水の音立てては泣いた日もあって収拾のつかない子供だった

      簡単に消去できない傷があり嗚咽が漏れるのならばそこから

      動物はお昼ごはんを食べながら孤独だなんて思っちゃいない

      ねなしぐさ根の絡まってふるさとはいつも今居る場所と定める



 

結婚して子どもがいて、それでもなお埋まらないような何か。

それは直接的にはうたわれていない。

うたわれていないのだが、亜々子さんには何かとても大きな深い〈傷〉が

あるような気がしてならない。

〈傷〉などと、簡単に言ってしまいたくないのだが、ものごころつくか、つかない

頃の記憶が心の奥の奥の方に溶けないで残っているのだ。




みどりごのお尻に蒙古斑がある。

その蒙古斑は成長するにつれて消えてゆくのだが、亜々子さんは、

その蒙古斑を抱えたまま大人になってしまった。

いや、違う。大人になって文学の世界に入って、その蒙古斑が

ぶりかえしたのだ ?



抒情的な香りのする歌集だった。

近代短歌の香りでもなく、現代の若者風でもなく、ほどよい味つけの

歌が並んでいる。何よりぺダンチックな言い回しがないのが好ましい。

そして、アクロバット的な技法もなく、読んでいてもつっかえない。




そういえば、9月のはじめだったか、西日本新聞の「随筆喫茶」に

亜々子さんの「私どこの人 ? 」が掲載されていた。

その中で「子供の頃の記憶」のことが書かれていた。

ハードな外遊びが好きな子どもだったらしいが、その胸の裡には

きっと周りの子どもたちの知らないようなものを抱えていたのかも知れない、

などと、想像(妄想 ? )している。

第一歌集、ご出版、おめでとう happy01


             栞  

               リアリズムでないリアリストの人    伊藤一彦

               夏の野原を歩くために          大森静佳

               ラムスデン現象のように         沖ななも

                                 2500円+税

                                 2018年8月27日

2018年9月15日 (土)

『喜屋武岬』 當間實光歌集  ながらみ書房

結社「未来」の道浦母都子選歌欄に所属の第二歌集。

表紙絵は角田守氏の「喜屋武岬」。

エメラルドグリーンの海の色が美しい。


     健児之塔の三人の像に対きあいし君と吾との高三の夏

     海に来て鮫の仲間になりたくてこんなに威張って生きていいのか

     沖縄が蹂躙されるそのたびに血が逆流すとぞ姜尚中氏は

     対馬丸の油まみれの児ら救われて箝口令の敷かれしとぞ言う

     恋をして妻を娶りて子を生して孫見るまでの互(かたみ)の五十年

     おむすびの三個と二個を包み終え妻と出でゆく辺野古集会

     魂の難民にこそなるなかれオキナワのことは沖縄が決める

     原発が沖縄に無きは米軍の基地ある故と小高賢のうた

     平和日本と口が裂けても言うまいぞ辺野古来て見よ裂かれた海を

     命あるものは必ず逝くのです菫タンポポまいまいつぶり


わたしが多くを語るまい。

歌を味わってほしい。

歌集を読んでほしい。

折りしも「沖縄知事選告示」の文字が新聞に……

                              2700円+税

                              2018年7月20日

 

2018年9月11日 (火)

歌集『冒険者たち』 ユキノ進  書肆侃侃房

『短歌』9月号の「歌集歌書を読む」で取り上げた歌集ながら、

印象深かったので、本日の「陽だまり短歌会」のテキストに使った。


この会の男性は3名揃ってリタイア組なので、どうかなぁと思いつつも

いやリタイア組だからこそ、距離を置いて醒めた眼で読んでくれるかも

知れないと期待しつつ。



     今すぐに飛んで行きますとクレームの電話を切って翼を捜す

     往来で携帯越しに詫びているおれを誰かがビルから見ている

     なだらかな坂のぼり切れば海が見える少し遅れて波音がする

     左岸から右岸に通う右岸から左岸に帰るひと日が終わる

     タクシーがみえなくなるまでお辞儀するおれの背中に風が吹いてる

     ゴーグルを着けたまんまで姉弟は素麺を食べるプールの午後に

     九階のベランダ越しの三人の影が大きく手を振っている

     それはもう愛だよ、愛とか言いながらお湯割りの梅をぐずぐず崩す

     ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり

     船乗りになりたかったな。コピー機が灯台のようにひかりを送る



いずれの歌もわかりやすい。

作者の訴えたいことがすんなり読み手に届く。

たぶん、誤読する余地のないように表現されている。

1首目、2首目などは、ドラマのワンシーンとでもいえそうな切り取り方だ。

1首目の「翼を捜す」なんて、ふつうは表現しないよね。(評者Aの声)

     「だから、そこがいいとも言える」(評者Bの声)

2首目は、刑事の張り込みの場面を連想したり…

      視線を感じて、ふと上を見ると、「誰かが見ている」

5首目もドラマなどでよくあるシーン。深々とお辞儀をして得意先の人や

   おエライさんを見送るんだよね。


3首目の「少し遅れて波音がする」は、うまいなぁと思う。

     そう思いつつ、なんだか既視感もある。たとえば花火の音とか、

     カミナリの音とか「少し遅れて」って、つかいがち ?


皆さんが反応したのは、9首目。

     そうなんですよ。病院などでも色わけしているんですよ、と言う(評者 C )

    名札を色分けしていたり…

     昔は看護婦さんで婦長の帽子などは線が多かった。(評者 D)

      しかしなぁ、派遣とか出向とか色分けされたら、たまらん(笑)(評者 E)




いやはや喧々諤々。(なんて、冗談です。わたしの一人芝居。)

わたしは、4首目のような極めてオーソドックスな歌が好き。

作者の言いたいことが、直截的でなく、よくよく読めば伝わってくるような。

サラリーマンの悲哀 ?  は、むしろこんな何気ないところに醸し出されている。


家族をうたった6首目、7首目。

実にいい。とてもいい。

やっぱり、家族を愛する歌はいい。


「自分の会ったことのない遠い誰か、未来の読者の心に届くといいな、」と

あとがきに書いていたけど、ほら、現にこうして会ったこともない、わたしや

わたしの歌仲間に届きましたよ。「未来の読者」では、ないけど。

                           1700円+税

                           2018年4月16日 第一刷発行

 


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このところ毎夕、ゆうがおの花が咲く。

二つ、三つと、ゆんわり開いていくのを見ているのは楽しい。


そして、朝顔の花が終わってしまったと思っていたのに、9月に入って

大きな花が毎朝開く。その朝顔を毎朝、激写している。

ピンク色に白い筋の入った「曜白朝顔」。

あまりに見事なので、誰かれ構わず送りつける。(困ったものだ。)


明日は某所に取材。

たのしみだけど、今週も3日続けてお出掛け。

2018年8月28日 (火)

来るのかい夏の大三角つれて    秦 夕美 「GA」 81号

秦 夕美の個人誌「GA」81号が届いた。

彼女の俳句を読むと気持ちがしゃんとする。

 

            来るのかい夏の大三角つれて

            大西日いやいや母の貌をする

            いたはられいたぶられをり夏の月

            手裏剣の欲しや星降る陋屋に

            朝顔やはたまた後世といふ時空


秦 夕美らしい(?) 句をあげてみた。


1句目、「夏の大三角」といえば、デネブ、アルタイル、ベガ。

デネブははくちょう座、アルタイル(ひこ星)はわし座、ベガ(織姫星)は

こと座の星。七夕伝説などを思い出すが、どっこい、夕美さんは浪漫の

方には傾かない。「来るのかい」は、誰に向かって言っているのかは謎。

読者がそれぞれ想像すればいい。


2句目、「いやいや母の貌」が、なんとも夕美さんらしい。

母親業どっぷりではない。たぶん若い時からそうだった、のかも知れない。

俳句にのめり込んで、俳句が〈ごはん〉みたいなひとなのだ。俳句がないと

死んでしまう、かも。(「いやいや」は、「大西日」にも読みようによっては

掛かる。「大西日いやいや」とも読めるが、わたしは「いやいや母の貌」の

方が好き。)




3句目、

今朝がた見た月は神々しい光を帯びていた。

望の月は26日だった。今朝の月はやや扁平だったが、3句目の

「いたはられいたぶられをり」が、なんともなんとも。


4句目の「手裏剣」。彼女に手裏剣を与えたらいけん。いかんよ〜。(笑)

実はわたしも欲しいときがあるにはあるが……


5句目「後世」などと言う言葉がサラリと出るところも夕美さんらしい。

わたし自身は「後世」など信じたくないし、信じていない。

しかし、そういう「時空」が存在すると思うことも、いいとしよう。(笑)


この「GA」は、現在81号。1年に3号発行のペースのようだ。

それにしてもよく続いている。いや、続けていると感心する。


そして、何よりわたしの好きなコーナーは「あとがき」。


       (略)まあいい。孫は私の仏様。拝観料も寄進も必要なのだ。

       いずれロードレースに出てみたいと言う。「人間、必ず死ぬ

       から、好きなことをしな」と私。どうやら私に似ているようで

       少し心配。


せっせせっせと孫に寄進している夕美さんもカワイイ。

そうだね「人間、必ず死ぬから…」あるお金は喜ぶひとにあげた方がいい。



わたしもせいぜい「好きなことを」して、行きたいところへ行って、

観たいものを観て、食べたいものを食べて、暮らそう……かしら。

             「人間、必ず死ぬから…」

2018年8月23日 (木)

『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』  暮しの手帖社

先日(8月16日)のブログで書いたS・I さんの夫人(彼女も歌詠み)が

「奇跡のカンパネラ/フジ子・ヘミング」のCDを北九州の歌会の会場へ

持って来て下さった。(名前の表記が「フジ子」と、なっている。2001・8・24)

それだけでも嬉しいのに、なんとなんとわたしが読みたかった『フジコ・

ヘミング14歳の夏休み絵日記』も携えて。

帰りの電車のなかで食い入るように見る。見るというより舐めるように

視るというほうが正しい。


    八月二十三日  金

    (略)明日はアメリカのチョコレートの配給。

       おば様の家が一箇。家は子供だから五箇。弟と顔を見合せて

       そっとべろを出す。

    八月二十四日  土

    (略) 今朝 チョコレートの配給。

       ベビールースっと言ふピーナツ入りチョコレート。

       何と言っても甘いものが私達の好物です。(略)



本書の「はじめに」の言葉に「1946年の夏休み」と記されている。


    食べ物のことばかり書いてあります。あのころ、弟とふたり、

    いつもおなかをすかせて、食べることしか考えていませんでした。(略)




絵日記の絵が可愛い。

「山形のリンゴ」の静物画や、「なき祖母」の肖像画は、絵日記とは

思えないくらいの描写力である。

だいじにだいじに読もう。 

 

                      平成30年6月26日  初版第一刷発行

                                  2315円+税

 

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本日の歌会の題詠は「理」の字の入った歌。

皆さん作りにくい題詠だったと言いながら、いろいろな「理」に

挑戦していた。







「理不尽」・「理解」・「条理」・「理由」・「修理」・「道理」・「料理」・

「理路」・「理性」・「理想」・「総理」・「義理」など。

これらすべて漢音であり、訓読みの「理」がなかったことが惜し

まれた。「理(ことわり)」とも読める筈。

『平家物語』のなかに、「盛者必衰の理(ことわり)を顕す」とも、あるのだが…


来月のお題は「地名の入った歌」日本は勿論だが外国名も可。





本日のお菓子はてんこ盛り(笑)。

①もち吉の「てのひら日記」のいろどりおかき。

②湖月堂の「栗饅頭」

③千鳥屋本家の「チロリアン」

④韓国みやげのクッキー 名前が読めない(苦笑)

⑤COFFEEキャンディ

     欠席者の分までいただいてニコニコと帰宅。




2018年8月20日 (月)

歌集『温泉』 山下 翔   現代短歌社

山下翔の第一歌集『温泉』

第一歌集という帯もなく、従って〈惹句〉なることばも見出せない。

装幀もいたってシンプル、というか、むしろ素っ気ないくらいだ。

カバーの色は鶸茶 ? 

カバーを外すと青藍色の表紙に白抜きの文字が力強い。

判型は四六判の変形。(変形といえば、わたしの第一歌集『早春譜』も変形。

2冊重ねてみると殆ど同じ大きさで、1ページ2首組なのだ。第一歌集という

文字もなければ、帯も無い。この偶然の符牒がなんとも嬉しい。)




    店灯りのやうに色づく枇杷の実の、ここも誰かのふるさとである

    自転車のタイヤがどうもやはいんぢやないかみたいな体調つづく

    わたしもすごくわかりますとふ相槌の、さうやつて呑まんでくれ俺を

    金折(かなを)れのやうに柱に凭れゐる我、この家をだれが支へる

    換気扇 がたんと回り始めたり母が煙草を吸つてゐたころ

    長崎の坂をよろこぶわが脚よあるいたところがふるさとになる

    石段のひとつひとつの傾きを足に合はせてのぼりつつあり

    この夏をいかに過ごしてゐるならむ花火のひとつでも見てればいいが

    ほむら立つ山に出湯のあることのあたりまへにはあらず家族は

    わが展く菓子箱もたれか組み立てて生活のかてとなしたるものを

    草食んでぢつとしてゐる夜の猫とほいなあ いろんなところが遠い


ホントは歌だけをあげて何も書かない方がいいのかも知れない。

わたしの拙い感想で読者を惑わしたくない。

先入観を植えつけたくない。

と、思いつつ、書いてしまうところがわたしの弱さ。



たとえば、4首目なのだが、初出は2015年8月2日に開かれた「第2回 福岡

合同歌会」に出詠されていた1首である。場所は「あいれふ」だった。

黒瀬珂瀾さんが在福していて、彼の司会で無記名の歌会だった。詠草は

黒瀬さん側が準備したので、わたしは作者がどなたなのかは知る由もない。

38首の中からの互選 5首。その中の1首がこの歌だった。



「金折(かなを)れ」などという語彙をうまく使い熟していることの驚き。

この時はルビは付いていなかった。金折れは、モノとモノを繋ぐ補強

金具である。この比喩の巧みさというか、たぶん実感に即して遣った

のだろうが、一転して「この家をだれが支へる」に、思わず涙ぐんでしまった。

きっと、この作者は「家」のことや「家族」のことに深い関心があるのでは

ないかと思った。



わたしは、情(じょう)に脆いのが欠点でもあるし、長所だとも思っている。

だから、即、そんな読み方をしてしまう。

こんな読みは、作者には迷惑だろう。(ごめんなさい。)


ついでに(厚かましくも)、10首目。

菓子箱を組み立てる内職があることを知ったのは、いつのことだったろうか。

この歌を読んで20代半ばの青年が「生活のかて」となしている人のことを

思い遣る精神に、心がふるえた。


作者の山下さんとは数度しか会ったことがない。

そんなに会ったことがないのに、とても身近に感じられるのだ。

孫世代(わたしには孫はいないが…)の山下さんが、いとしい。(笑)


「いろんなところが遠い」けど、山下さん、あなたなら大丈夫。

どうぞ、羽搏いてほしい。

そして、どんなことがあっても短歌をやめないでほしい。


           栞   島田 幸典  「そこに人間がいる」

                花山 周子  「『温泉』の特殊さについて」

                外塚 喬    「こだわりの人」

 


                             2018年8月8日発行

                             2500円+税


 

 

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